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彗星に乗っちゃったイノウエ

風の噂で耳にした。
「古い友人が彗星に乗っている」って。
そんな夢物語を誰が信じるか。
そんな風に思いながらも、毎晩のように夜空を見上げるようになった。

ある日の晩、人が乗っている彗星を見つけた。
思いきって声をかけてみた。
届かないだろうけど。

「おーい、イノウエ」
すると、彗星は急に角度を変えて、こちらに向かってくるではないか。
「呼んだ?」
イノウエは昔のように話しかけてきた。

変わったところは銀髪になっていたこと。
そして、なぜか天丼を食べていたこと。

「私も彗星に乗せてくれないかい?」
「彗星の尾っぽから乗ると良いよ」
意外なほどに柔らかい彗星の尾っぽ。
私は尾っぽの方からイノウエに近づいた。

イノウエの隣りには、アードベックのボトルが一本置いてあった。
何も言わずにボトルから一口もらい、イノウエを見つめる。
すると、彗星は急に飛び立った。
公団の低い屋根を飛び越し、一気に成層圏まで。
「この彗星はどこを通っているんだい?」
「さぁ、わからない。ただ、茨のバージンロードの上を飛んでいるのは確かかな」
「髪の色はどうした?」
「月明かりにずっと照らされている内に、こんな色になっていたよ」

たわいの無い会話をしている間も、彗星は速度を上げていく。

「どこか目的地はあるのかい?」
「今のところ、神様に天丼を届けに行くところ」
「もう食べているじゃないか、天丼」
そういうと、イノウエは彗星の中からもう一つの丼を取り出した。
準備の良いやつだ。
昔からそうだった。
そんな女だった。

彗星の先端から下を覗くと、青い地球が見える。
「1人で寂しくないのかい?」
そう訊ねるとイノウエは寂しそうに声を出して笑った。
「彗星に乗ると決めたときから、感情は捨てたよ」
とてもそんな風には見えなかった。

どんどん彗星は速くなっていく。
イノウエの声も聞き取り辛くなってきた。

「神様に天丼を届けたらどこに行く?」
「光のスピードを超えて、千年紀末の雪を見に行く。そのあとはブラックホール見学かな」
感情を捨てたという割には楽しそうである。

一瞬の間が空いたあと、イノウエが口を開いた。
「あ…の…と、ス…た?」

もう途切れ途切れしかイノウエの声は聞こえない。
答えに窮していると、答えを待たずに天丼をかき込んだイノウエ。
そして、アードベックを一息に流し込んだ。

その光景を見ている内に、いつのまにか元いた場所に戻っていた。

「もう地球を10周はしたわよ。さようなら」
イノウエは私の頬にキスをした。
刹那的で、永遠に続くようなキスを。

イノウエは笑っていた。
私は泣いていた。
もう会えないことが分かっていたから。

「彗星に乗せたのはあなただけ。
またね。また、見かけたら声をかけてね」

降りるときの彗星の尾っぽは熱を帯びて熱くなっていた。
私の心のように。

そんなことを感じていると、彗星は瞬く間に夜空を駆け抜けていった。

やはり夢だったのだろうか。
まほろばと言っても差し支えがないような。

でも、あのキスは本物だった。
彗星を降ろされた私は立ちすくんだまま、静かに涙を流していた。

あの夜以来、夜空を見上げることはなかった。
やはり夢だったかもしれないし、
イノウエのことが恋しくなるかもしれないから。

次に夜空を見上げるときは、花束を用意しておこう。
茨のバージンロードを通るイノウエにプロポーズするために。

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Night Songs コンテスト*Muse*

広沢タダシさんの『彗星の尾っぽにつかまって』をテーマとしたショートショートを書いてみました。素敵な歌ですのでぜひ聞いてみてください。

楽しんでいただけたなら「ハートマーク」を押してもらえると嬉しいです。

それではまた別の作品でお会いしましょう。

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