原告記(仮)#56 「ゆうたさんの陳述書」

先日2月10日の福岡地裁、九州訴訟の第7回期日があった。今回、原告のゆうたさんが意見陳述を行なっていた。
同性婚訴訟の場で、これまでも各地で原告の意見陳述が行われている。それぞれの陳述書は甲乙つけるものではないけれど……でもゆうたさんの陳述書は、いま、とにかく広く読まれてほしいものだと感じた。


以前、このnoteのどこかの回で、
同性婚訴訟にフィクションの要素はいらない、いれてほしくないと書いた。
多くの人たちに何かを伝えるとき、わかりやすさが必要になってくる(…のはわかる)。でも、それだけじゃない。隙間に現れるような気持ちとそれを探る過程こそが、その人らしさなんだと思う。

昨年8月、私とりょーすけさんが九州を旅した際(#45〜#49参照)、原告カップルの一組、こうぞうさん、ゆうたさんに会っている。2人の家には猫がたくさん、ともに暮らしている。
こうぞうさんが前に出て発信するタイプ、対してパートナーのゆうたさんは大人しい雰囲気(でも、猫に関することだと有無を言わせぬ行動力を発揮する人に見えた…)。
この一見、動と静の対比はうちと似ている。こうぞうさんとりょーすけさんの、見た目も…似ている、笑。


ゆうたさんの陳述書をネットで読んで、自分に"刺さった"のは何かというと、
絶対にここは譲らない、そんな気概を感じた。"ここ"とはつまり「自分の言葉」で語るということ。シンプルな言葉の並びに、ゆうたさんの足跡がある。
法廷のど真ん中に立って、裁判官を前に陳述書を読み上げる、その独特な緊張下の数分間。社会から俯瞰したら小さいかもしれない一手、それこそが岩をも動かすと信じたい。


最初に「同性婚訴訟にフィクションの要素はいらない」と書き始めた、が、フィクションとノンフィクション、実はそうはっきり分けられるものではないのかもしれない。そして当然、様々な映画に小説にアート作品、フィクションという表現の世界だからこそ出来ることがある。
…でも、フィクションは現実を軽く見做してはならないし、逆にノンフィクションは、安易にフィクションの力を使ってはダメなのではないか?そこには、思考と前向きな意味の批判がない。楽しければ、面白ければOKなわけでもない。答えは簡単じゃないし与えられるものでもないのだから。


昨年11月、東京でセクシャルマイノリティのふうふをテーマにした10人のイラストレーターによる展示があった。
やわらかな印象とともに同性婚に関心をもってもらうための機会が、引き続き、現実に存在する人の問題としての理解に繋がってほしい。展示された作品は、同性婚訴訟が公共訴訟である以上、その使命を持ち続けるべきだと思う。
また、同性婚を求める動きは法廷だけではなく、大企業や国会議員などに向けて大きなアプローチも進んでいる。
どうか、これら社会的ダイナミックな動きと同じくらいの情熱で、関係者各位、1原告の声をフォーカスすべきではないかと感じている。

ゆうたさんの陳述書はこちら
是非とも、読んでほしい。

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