原告記(仮)#67 「まぼろしの意見陳述書…その壱」

もう7月も数日で終わってしまうとは─。
毎年6月が終わったら、1年も半分が過ぎたことに"早いねぇ"なんて会話を挨拶代わりにしていたような気がするけれど…今年は、いつものそれが抜け落ちてしまった気がしている。 

ここ1ヶ月は大阪地裁判決から始まって選挙もあったりと、世の中の動きに落ち着かないまま気がついたらいま。そして、札幌控訴審、第2回目の期日が8月9日と目前に迫ってきました、、、、

今回の期日、じつは私が意見陳述をすることになっています。そのための意見陳述書をこの1ヶ月ずっと書いていました。
意見陳述書を書くのは2回目。
前回は2年前、2020年8月5日に行われた尋問のために書いたもので、ライフヒストリー的に時系列でまとめていましたが…今回は、2回目なのと大阪地裁判決の件もあるということで、「いま」思うところに焦点をあてています。

で、この2年前に書いた意見陳述書、当時は非公開となっていたため、裁判資料を見ることの出来るサイト「Call4」にもあがっていません。

今回、8月9日に向けて、私的カウントダウンの第一弾として、ここで再現します。
たった2年前に書いた自分の意見陳述書でも、いま見ると、現在の心情と言葉がちょっと違うような照れくささがありますが、是非読んでみて頂ければ、汗。↓


意見陳述書 たかし(2020年8月5日)

1. 私は、同性のパートナーである原告1と一緒に暮らすゲイ(男性同性愛者)です。
彼との出会いは、今から20年前、当時の新聞記事を見たことがきっかけでした。
記事の中で、同性愛者の子を持つ親の会を主宰していた彼の活動と生い立ちが、次のように紹介されていました。
“大学卒業後は、性的少数者の人権問題に取り組む札幌の仲間たちの活動に注目し、札幌に移住”
“札幌市内の雑貨店に勤務。25歳。”
自分の生まれ育った街で、同世代の若い当事者が行動しているということにまず驚きました。
ニットキャップに丸いフレームの眼鏡。現在よりもほっそりした顔立ちの写真の彼に、憧れと励まされるような気持ちを抱いた私は、その記事を切り抜いて保管しました。インターネットがいまほど普及していなかった時代の話です。

2. 10代の頃、同性に惹かれる状況が度々あったにも拘らず、なぜか私は、それを恋愛感情だと自認しませんでした。相手に対する憧れ、この人のようになりたい(なれない)という切羽詰まった感情を、自分のコンプレックスが由来の精神的な問題ではないかと考えた末、図書館で心理学の本を物色したこともあったくらいです。
20代にかけて、社会のメインストリームに出ることへの不安と、その大きな何かから隠れて生きたい心情とともに、同性愛者である自分を前向きにとらえることは出来ませんでした。

3. 2002年11月17日、新聞記事の彼と初めて実際に会いました。私が30歳で彼が27歳…結局、その日から17年の月日を共に過ごしてきました。誕生日や行事にこだわらない私たちですが、この日だけは、ささやかなお祝いをします。
どこか所在なげに生きていた私にとって、この人と一緒にいれば自分の人生は大丈夫だと、つき合いはじめの段階で直感的に感じていました。彼の社交的で人好きな性格と、はちきれんばかりの笑顔は、楽しいときには笑う、心を押し潰すことなく、社会に対して自分の気持ちを(ときには怒りの声を)出していいということを教えてくれました。

4. 初めて会ってから2年後の秋、二人の関係も落ち着いてきた頃、ちょうど札幌でレインボーマーチ(性的少数者によるパレード行進)が行われたときのことです。
実行委員長だった彼は、集会の最後のあいさつで私のことに触れました。
「いつも、忙しくてイライラしたりしたときも、見守ってくれたパートナーのたかしに感謝します。」
大勢の人々が埋め尽くす大通公園の広場の、ずっと後ろの辺りで聞いていた私は、そのとき “この人と一緒に暮らそう”と決断しました。このときの自分の気持ちが動いた瞬間が、“この人と結婚したい”という決意そのものだったと、すっかり忘れていましたが、この裁判が始まってから気付きました。

5. 2004年の冬に近づく頃、同居を始めました。二人で不動産屋に行き、3LDKの物件を決め、引越の様々な雑務をこなしながら…自分の人生が、自分の意思で確かに前進している、そんな感覚が先行していたので将来の不安はまったくありませんでした。
しかし、物件を探す際は緊張感を伴いました。彼の転勤に伴い、これまで4回の引越を経験していますが、不動産屋で最初に“友人同士のルームシェアです”と伝えるその瞬間、担当者の顔色を窺うのです。ルームシェアでさえOKとしない大家さんがいる現状で、同性カップルで住むとはとても言えません。“ごくあたりまえの部屋探し”として、ただただ無事に過ぎ去って欲しいと願いながら、自分たちの関係を隠してきました。

6. 同性カップルといっても、私たちは“ごくあたりまえの生活”を送っているだけです。
食事の支度は主に私が行っていますが、後片付けは率先して彼がやってくれます(あんかけ焼きそばや炒飯は彼の担当です)。
15年の月日の中で、うちの定番メニューもたくさんあります。鶏と大根のシチュー、揚げ豚、キャベツ入りのメンチカツなど気に入ってくれているようです(もとは大好きな料理研究家の有元葉子さんのレシピが、うち風にアレンジされました)。いつも具沢山にする味噌汁は、彼の生まれ育った土地の文化ともいえる赤味噌を使っています。東南アジアが好きで旅行する度に、現地で食べた料理をうちでも試してみます。納豆が苦手な私の前で誇らしげに納豆を食べる彼に、ときどき納豆禁止令を出しますが聞いてくれません。先日は、私のスーパーでの買い物が長いという些細な理由で大げんかになりました。
本当に、特別なことのない日常です。私にとって彼の存在は、家族としか言いようがありません。

7. 2005年秋、初めて彼の実家へ出向きました。彼の妹の結婚式に家族の一員として参列もしました。
明るく迎えてくれたお義母さん、豪快な印象のお義父さん、彼と同じく陽気な義妹に少しぶっきらぼうだった義弟。風情ある町並みと一軒家。彼が10代を過ごした部屋。そこには、母子家庭で育った自分がかつて憧れていた、懐かしい家族の風景がありました。
それから何度も彼と一緒に帰省しました。お義母さんが作る郷土料理の「手こね寿司」が楽しみの一つです。異性愛者の夫婦がどちらかの実家に帰省するようなよくある話に、自分たちの姿は同じようなものだと、誰もが心の中で感じていたと思います。
2016年末には、私の母と、再婚した義父も連れていきました。家族と家族を繋げられたと感じました。

8.北海道が大規模停電に見舞われた2018年末、労いもかねて、みんなで山奥の温泉旅館へ出かけました。
チェックアウトの際、旅館のスタッフに写真をお願いしたときのこと(私たちはごく平凡な親族の集まりに見られていたと思います)。気さくなスタッフのお兄さんは、撮り終わった瞬間、不意に嬉しそうな表情になりました。不思議に思った私が聞くと、こう答えたのです…「これ、とてもいい写真ですよ」と。
写真には、両親、姉とその夫と当時は高2の甥っ子、私と彼の7人のはしゃいだ笑顔。この陳述書に添付したのがその写真です。思いがけずかけてもらった言葉は、まるで視界が開けたように、自分でも意外なほど嬉しかった。
しかし写真の中の彼は、法的には他人です。私たちが、どれだけ家族としての時間を過ごしてきたにも拘らず。

9. 結婚が異性愛者のものである社会の中で、私は十分幸せに暮らしてきました。彼には感謝しかありません。
一方でそれは、綱渡りをしているような不安定さの上に成り立っているということを、いつ何が起こるともわからない世の中で、実感せざるをえません。どちらかが病気にかかったり、なにかトラブルがあったとき、自分たちの力だけでこの暮らしを守り通すことが本当にできるのでしょうか。
そして、私たちの関係を受け入れてくれた家族にも、ある種の我慢を強いていたことに気づきます。

10. LGBTという言葉がこれほど普及した現代の日本で、なぜ私たちは(いつまで)、結婚において“想定されない”存在であり続けるのか。その理由は、未だに「同性愛は趣味」「性癖にすぎない」と切り捨てる(一部の)人の態度と、結果的に同じことではないでしょうか。
結婚しないのではなく“結婚できない”状況は、私たちの生活実態とかけ離れています。そして、社会の作る見えないプレッシャーの中で、社会の一員としての生きる気力を削られてきました。
この日本で同性婚が実現することを通して、すべての人が自分の人生を自分で選ぶことのできる、自由な社会であってほしいと心から願います。

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