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Vol.15 藤原氏⑧~応天門の変

こんにちは、TKです。今日は、承和の変から応天門の変くらいまでの藤原氏の歴史について書いていきます。

1.良房、太政大臣へ

承和の変から8年後、仁明は世を去り、良房の甥にあたる文徳帝が即位します。

この時、文徳には数人の後継者候補がおり、誰を後継者にするかでもめたと言われますが、良房は自分の権勢を利用して自らの娘、明子の産んだ惟仁親王を後継者に立てることに成功します。そして、857年には良房は太政大臣に就任することとなります。(道鏡以来90年ぶり)

太政大臣は、「天皇の師範(=指導役)として、社会・政治の監督をする」という臣下として最高の役職です。しかもこの時、同時に弟の良相も右大臣に任じられており、この様子を見た在原業平は皮肉をこめてこんな歌を詠んだとか。

咲く花の下にかくるる人を多み ありしにまさる藤のかげかも
意味:大きく咲いた藤の花の下に人が入ってきて、そのおかげ(=利益)を受ける人が多いので、さらに藤の花影が大きくなっていきますなあ

2.清和帝と摂関政治

良房が太政大臣についた翌年に文徳帝は世を去り、清和帝が皇位につきます。

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とはいえ、新天皇はまだ9歳。幼くして帝位についた彼の代わりに仕事をする人物が必要でした。そしてその役には、太政大臣で自分の祖父、藤原良房しかいませんでした。良房はここから天皇が元服するまでの6年間、事実上の摂政(=天皇の代わり)を務めることになります。

こうして、藤原氏の人物が親せきとして天皇の代わりに政治をする、「摂関政治」が始まるのです。

摂関政治が幕を開けてまもなく、良房は自分の兄の子で養子にしていた基経を参議に上げ、次世代の準備をし始めていました。

3.応天門の変

ところが、866年3月10日の夜、即位式などの重要な行事が行われる朝堂院の正門である応天門で突然火災が起きます。これが、「応天門の変」の始まりです。

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この大事件を受けて朝廷では、さっそく犯人捜しを始めます。ちなみに、応天門の変当時、朝廷の政権はこのようになっていました。

④応天門の変

当時の大納言、伴善男は左大臣である源信が放火したとして、右大臣の良相に逮捕を求め、良相は基経に信の逮捕を任せます。しかしここで基経が良房に話を伝えたことで、事態が変わります。

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良房は清和帝のところへ向かうと、信の逮捕をやめさせて事件の慎重な捜査を行うことを求めたのです。

そののち、8月になって大宅鷹取という人物が事件の真犯人は善男・中庸父子であると訴え、鷹取は、応天門で火災が起きる直前に門の近くで善男たちを見たと証言します。(ちなみに、鷹取が善男を訴えたのは、鷹取の家族が善男の家人に殺されたからだとされています。)

まもなく、伴善男たちは捕えられ、9月には一族と共に流罪になります。こうして名族、伴氏と親せきの紀氏は衰えていくのです。また、事件に関わった左大臣・源信と右大臣・藤原良相の2人もまもなく病死し、政権の4人のうち残ったのは良房のみとなります。

4.良房、摂政就任

そのような中で、清和帝は良房に対して「摂行天下之政」という勅令を与えて良房を摂政に任命して全権を任せます。これが、人臣摂政(=皇族以外の摂政)の始まりです。(人臣摂政は後に明治時代に皇室典範で禁止される)

ただし、あくまでもこの摂政就任は応天門の変のための緊急措置と言われており、まもなく良房は摂政から太政大臣へ戻っています。

そして12月に良房は清和帝の下へ在原業平との恋愛で有名な基経の妹、高子を入内させ、後に陽成帝となる貞明親王を生むことになります。また同時に基経も中納言に昇進しています。

本日もここまで読んでいただき、ありがとうございました。次回からは藤原基経の時代に入ります。














































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