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Vol.12 藤原氏⑤~奈良時代後期

こんにちは。TKです。今日は、奈良時代から平安時代にかけての藤原氏の歴史を書いていきます。

1.奈良時代末期の藤原氏

道鏡が称徳と共に政権を握っていたころの藤原氏はどうだったのかについて、少し見ていきます。

まずは南家から見てみると、仲麻呂家は恵美押勝の乱でほとんど滅亡してしまい、兄の豊成は右大臣に戻ったものの、南家全体的には仲麻呂の影響で力が落ちてしまいます。
北家は房前の息子たち、永手・真楯・魚名を中心に議政官を出しているものの、その他に有力者はまだ現れていません。一方で、藤原広嗣の乱から立ち直った式家が少しずつ力を伸ばしていき、奈良時代末期は式家が中心に立つのです。

2.式家の台頭

770年に称徳が世を去ると、道鏡はまもなく失脚して下野国へ追いやられることになります。

称徳には子供がいなかったので、朝廷では後継者決めが行われて光仁天皇が立つことになりました。しかし、光仁はすでに高齢だったため、後継者争いが起きます。そしてこの争いに勝ったのが桓武天皇と彼を推していた藤原式家の藤原百川でした。また、式家からは他に良継・田麻呂もこのころ中枢に上がり、式家は勢力を伸ばします。

一方、時を同じくして京家からも浜足が議政官に昇進し、京家は麻呂に次いで2人目の議政官を出します。また、北家も永手に次いで魚名が左大臣に上ります。

3.桓武の時代と藤原種継

しかし、桓武天皇が即位する頃には上の3人が相次いで世を去ってしまい、式家の力は落ちてしまいます。また、浜足もどういう訳か家族と共に左遷されてしまい、京家は弱体化します。

こんな時に、氷上川継(仲麻呂の乱で天皇に立てられた氷上塩焼の子供)という人物がクーデター計画を立てるという事件が起きてしまい、魚名もこれに巻き込まれ、退場することになります。これで、北家も一時衰えます。

その後に議政官の補充として上がってきたのが、式家の種継でした。加えて、百川の息子、緒嗣も桓武天皇に見込まれ、出世することになります。しかし、緒嗣はまだ幼く、式家の有力者は種継のみという事になりました。

4.長岡京遷都

784年、このような中で平城京から長岡京へと遷都が行われ、新都建設の監督として種継が選ばれます。

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ところが工事はなかなか進まず、まるで追い打ちをかけるかのように、工事現場で藤原種継が暗殺されるという事件が起きます。

この事件は、大伴家持(「令和」の和歌を詠んだ人です)と早良親王がクーデターのために行ったと言われ、桓武は親王を幽閉し、安殿皇太子が立ちます。(後で詳しく書きます)

そして皇太子の座に就いた彼は、即位して平城天皇となると、種継のことを考えたのか、種継の2人の子を要職に付けます。この2人こそ藤原仲成と藤原薬子だったのです。2人が歴史に現れたのは、このような理由だったのです。

5.平安京へ

その後も長岡京の建設は続きますが、桓武の家族が次々とこの世を去るなどの不幸が相次いだこともあり、(早良親王の祟りと言われた)桓武は794年、平安京への遷都を図ります。平安時代のスタートです。

こんな時に、桓武は藤原氏に対してある詔を出します。その内容は「藤原氏は2世の女王との結婚を許す」というものです。

律令では、天皇から5世経た女性でなければ、臣下は結婚できませんでしたが、藤原氏は高位高官を代々務めてきたため、特別に認めるというものでした。こうして、藤原氏は他氏族を大きく上回る地位を得たのです。

本日もここまで読んでいただき、ありがとうございました。次回は薬子の変くらいから書きたいと思います。

















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