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Vol.3 牛李の党争とは?~傾く大唐帝国

こんにちは。TKの歴史部屋です。今回は、唐王朝後半のマイナー事件、「牛李の党争」について書いていきたいと思います。
実はこの事件、マイナーなのですが時代の変化の中で起きた重大事件なのです。

1.傾く大唐帝国

今日のテーマ「牛李の党争」が起きたのは、9世紀前半から中盤位の事でした。このころになると、唐王朝も安史の乱もあり、弱体化してしまいました。
唐王朝が次第に力を失っていくのと同じように、これまで唐王朝の中心にいた貴族たちも力を失いつつありました。そして代わって力を伸ばしてきたのが、進士と呼ばれる科挙に合格して官僚になった人々でした。

2.進士たちはなぜ力を付けたのか?

なぜ、進士たちは力を付けることが出来たのかというと、このころには唐が衰えてきていたため、唐王朝は国を立て直すために能力ある人材を求めるようになっていったためです。そしてそのニーズに応えたのが進士たちだったのです。彼らは科挙と呼ばれる難関試験に合格して官僚になっています。なので、才能と頭の良さではこれまで政治を握ってきた貴族たちとは比較になりません。こうしてやがて進士たちは貴族を押しのけて高官になるようになっていきます。加えて、進士たちの活躍を見た国は才能ある進士たちをもっと採用しようと合格者を次々と増やしてゆくのです。

3.貴族VS進士

さて、こうなると面白くないのが貴族たち。このころの唐王朝には、「任子」という制度がありました。これは、貴族や高官の息子であれば親の推薦で官僚になれるというものです。この制度は、唐王朝以前の貴族の強かった南北朝時代の名残ともいえるものです。
しかし時代は変わり、いまや数の増えた科挙官僚の方が強くなりつつある時代。実力で対抗しようにも手ごわい相手。貴族たちの進士へのコンプレックスは増すばかりでした。そして進士たちも出世の邪魔になる貴族たちにライバル意識を持つのです。

4.牛僧儒と李宗閔

そんな時に行われた試験で、牛僧孺と李宗閔という2人の受験生が論文でその時の名門貴族出身の宰相(=総理大臣)の政策を激しく批判します。普通なら宰相の圧力で落第するはず… でしたが試験官も貴族ではない科挙出身だったこともあり、2人は優秀な成績で合格してしまいます。

ただ、そうは言っても2人は無傷という訳にはゆかず、合格はしますが地方に左遷されてしまいます。しかしさすがは有能な進士だけあって、やがて中央政界に戻ってきます。そして、試験で貴族の宰相を批判した行動が進士たちから評価されたのか、進士たちのリーダー的ポジションになるのです。

5.党争勃発

一方でこのころ、李徳裕という人物が高官になろうとしていました。実は彼、牛僧孺と李宗閔が論文で批判した宰相の息子です。もちろん当然名門貴族。というわけで科挙ではなく任子の出身でした。彼は言うまでもないですが2人を恨んでいます。そしていつの日か2人を追い落としてやろうと思い始めるのです。

そんな時に、科挙試験で不正が見つかります。李徳裕はこれを聴いてその責任を李宗閔になすりつけて地方へ飛ばしてしまいます。こうして李徳裕の復讐は成功しますが、牛僧孺と李宗閔からは恨まれます。
その後、進士出身の宰相が立った時に李宗閔は復職しますが、この時にお返しとばかりに李宗閔は李徳裕を地方へ飛ばします。この時に散々に冷や飯を食べさせられた李徳裕は2人を恨みます。
そして、40年に及ぶ両者の政権争いが起きるのです。これが両者の名前を取って「牛李の党争」と呼ばれるものです。

その後、憲宗から敬宗に皇帝が変わった時に牛僧儒と上の宰相が失脚したので、李徳裕はスキを突こうと敬宗の跡継ぎの文宗に働きかけて父と同じ宰相になろうとしますが、文宗は牛僧孺と李宗閔を宰相にしてしまいます。

ところが、牛僧孺が外交問題で失脚してしまうと、李徳裕に宰相の座が転がり込むことになります。そして復活した李徳裕は牛僧孺と李宗閔を地方に飛ばしますが、彼はその後文宗に嫌われて李宗閔に宰相を譲らざるを得なくなります。また、どちらもグループを組んでいたので、宮廷ではグループ同士での中傷合戦が繰り広げられることになってしまうのでした。

この永遠に続く中傷合戦にはさすがの皇帝もあきれ果てて、「地方軍閥の反乱を始末するのは簡単だが、中央の政争はどうしようもない」とサジを投げたとか。

結局、皇帝は党争を辞めさせるにはどちらでもない人間を宰相にするしかないと諦め、李宗閔は宰相を降りることになりました。

6.党争の結末

それからしばらくして、文宗は世を去り弟の武宗が皇帝になると、李徳裕が宰相に任命されますが、恨みは忘れられないのかやはり例によって李徳裕は牛僧孺と李宗閔を左遷してしまいます。そして武宗の時代は彼が宰相を独占するのでした。
ところが、武宗が死んで宣宗が皇帝になると、牛僧孺と李宗閔を復職させて李徳裕は失脚することになります。しかし、さすがに同じことは繰り返すまいとしたのか、宣宗は牛僧孺と李宗閔を復職こそさせても要職には付けませんでした。そしてさすがに寿命が来たのか、彼らも次々と世を去り、牛李の党争は幕を下ろすのでした。

7.まとめ

この党争は、時代の変化によって力を伸ばしてきた科挙官僚と、衰えていく貴族との政権争いでした。しかしこの党争以降も貴族の衰退と科挙官僚の拡大は止まらず、やがて宋代の科挙官僚の時代へと進むことになりますが、この党争によって激しい政権の入れ替わりが続いたことで政治が混乱して、大唐帝国は更に弱体化することになります。でも、歴史の本を読んでなんとなく思ったのですが、このように何かが変わる過渡期には「牛李の党争」のような混乱が起きて、これまでのシステムが崩れはじめて新しい時代が始まるのかもしれませんね。

本日もここまで読んでいただき、ありがとうございました。

・参考資料 宮崎市定「大唐帝国」




















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