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Vol.6 フランス革命③〜王政廃止

こんにちは。TKです。今日も、フランス革命第3回ということで、王制の廃止から始めていきたいと思います。

1.国民公会の成立

8月10日のクーデターで政権を奪ったジャコバン派は、従来の選挙法を改め、普通選挙(男性のみ)に変え、議会選挙をやり直しさせます。こうして9月から10月にかけて再び選挙が行われ、フランスでは立法議会に代わって国民公会と呼ばれる議会が開かれることになります。

しかし、その国民公会にはクーデターで追われたかつてのフィヤン派はなく、同じジャコバン派のジロンド派とモンターニュ派の二派に議会は支配されていました。そして、ジャコバン派による独裁政治が始まってしまうのです…(そして二派の間に平原派という中間派がいた)

2.ルイ16世、処刑

新議会で話し合われた最初のテーマは、「ルイ16世をどうするか」でした。そしてまず王制の廃止が議決され、ルイ16世はタンプル塔に家族ごと監禁されてしまうのです。こうして、1000年続いたフランス王国は滅亡してしまい、フランスは共和国へ変わります。この時からナポレオンの皇帝就任までの間を「第一共和政」といいます。

そして次にルイ16世の裁判が議会で行われ、こちらも可決されて翌年1月、ルイ16世はギロチン台で処刑されてしまいます。そして、その9か月後には、妻のマリー・アントワネットもまた、殺されるのです。

ルイ16世の処刑は、ヨーロッパ諸国に重大な衝撃を与えてしまいます。少なくとも元々反革命のプロイセン・オーストリアに加え、これまでは立憲君主制を目指す穏健な革命という事で様子を見ていたイギリスまで、反仏化するのです。

3.モンターニュ派VSジロンド派

こうして王制から共和国になったフランス。しかし、共通の敵がいなくなれば仲たがいするのが世の中なのか、ジャコバン派内部で対立が起き始めます。
同じジャコバン派とはいえ、ジロンド派は元々穏健派で、いわゆるブルジョワジーと呼ばれる上層市民が支持基盤です。そして、経済的には彼らの望む自由経済を支持しています。
しかし、ロペスピエールなどで有名なモンターニュ派(山岳派と言われる)はそうではなく、革命時のデモ隊に参加したサンキュロットと呼ばれる都市の中小企業や労働者、中小農民を支持基盤に持っています。味方にデモ隊が多いのでもちろん過激派なだけでなく、経済的な理由から価格の公定等の統制経済を望んでいます。こうして、2派は次第に溝を深めます。そしてそのような時にルイ16世の処刑が起きるのです。

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4.対仏大同盟

ルイ16世の殺害がヨーロッパ諸国に伝わると、王政廃止の革命が広がることを恐れた各国は、対フランスのための軍事同盟を結びます。これが第一回対仏大同盟というものです。

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これにより、フランスはヨーロッパのほとんどを敵に回してしまっただけでなく、外国との貿易が行き詰ったことでフランス経済が崩壊寸前になってしまい、インフレや食糧危機が起き、巻き返しつつあった革命戦争も不利になってしまいます。

このような危機に対処できない政府に対して、各地で反政府運動が起きます。特にかつての王党派がヴァンデで起こした反乱は大きく、政府は対応に苦しみます。

5.モンターニュ派のクーデター

もはや崩壊寸前のフランス。政府には暴動に手を焼いた地方から対応するための人員を送ってほしいという要望が殺到していました。このような時には、少ない上層市民のみを支持にもつジロンド派より、デモ隊の大量動員に慣れているモンターニュ派が有利ですよね。というわけでモンターニュ派はパリ市民を動員し始めます。

そしてその集めた人員を暴動鎮圧へ回すのではなく、武装させて議会のジロンド派を追放することに使います。こうしてジロンド派議員の多くは、失脚することになります。

こうして全権を奪ったモンターニュ派は、経済と社会の崩壊を食い止めようとしますが、共和国の危機的な状況は変わりませんでした。

6.恐怖政治と公安委員会

そこでモンターニュ派は、共和国の維持と革命防衛のためには強力な力が必要と考え、行政の管理という理由で公安委員会という組織を立ち上げるのです。

公安委員会は行政の指導という強力な立場から、反革命的とみなした勢力を容疑者リストを作ってかつての王党派や、ジロンド派を次々と逮捕・処刑していくのです。こうしてモンターニュ派に反対する勢力は次々と処刑されていく、恐怖政治(テルール)が幕を開けるのです。(レーニンの「テロル」と同じだ)

その一方で公安委員会は、経済再建を目指しての価格や賃金の統制令を出したほか、厳格な徴兵制度を敷き、兵士を増員して軍の立て直しを図ります。(ちなみにこの徴兵制度の名目は、国民が主権を持つ共和国である以上、主権者自ら国を守る、というものでした。しかしその後も徴兵制度は続く)また、キリスト教旧制度の廃止を目指し、革命暦と呼ばれる暦を作ったりもしました。

7.1793年憲法とモンターニュ派の衰退

公安委員会が全権を振るう頃、モンターニュ派は1793年憲法と呼ばれる新憲法を制定します。この憲法では、封建制の無条件廃止などが決められ、普通選挙や国民投票制度も決められた民主的な制度でしたが、急進的な内容であったこともあり、実施されることはありませんでしたが、関連法などによって農民には土地が与えられました。

一方で、徴兵制度などによる増援もあり94年に入ると、革命軍は勝利を続け、フランスの対外情勢は前向きになります。こうなると、これまでは革命の防衛ということでやっていた恐怖政治が難しくなってきます。そしてこれと同時に、モンターニュ派にもすきま風が吹き始めるのでした。

本日もここまで読んでいただき、ありがとうございました。次回はテルミドールのクーデターから書いていきたいと思います。





























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