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Vol.13 藤原氏⑥〜「薬子の変」

こんにちは、TKです。今日は、平安時代前半の大事件、「薬子の変」の時代の藤原氏の動きについて書いていきます。

1.平城天皇の時代

804年に桓武は世を去り、代わって平城帝が即位します。平城は即位すると、国内改革に打ち込みます。
平城の改革は、新都建設や蝦夷征討などの拡大政策が行われた桓武の時代とは反対に、公卿や官吏の削減などの効率化・引き締め政策でした。しかし、引き締め政策は、ターゲットになった貴族たちの不満を引き起こしてしまいます。

そのころ、807年に伊予親王の変という事件が起きます。式家の藤原仲成の南家潰しであったとも言われるこの事件は、平城帝の弟、伊予親王がクーデターを計画したといわれるものです。結局、これは伊予親王親子が幽閉され、自殺するという結果で終わります。そして、仲成の狙い通り伊予親王の母方、藤原南家も連座になり、議政官の雄友・乙叡も失脚し、南家は衰えていきます。

2.平城帝の譲位

伊予親王の変から2年後、平城帝は突然病に倒れ、弟の嵯峨帝に譲位することになり上皇は病気の回復のために引っ越しを繰り返すようになり、かつての都、平城京に戻るのです。

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ところが、その翌年の810年には嵯峨帝まで病に倒れてしまうのです。そこで、嵯峨帝は自分が政務を執れないときに備えて「蔵人所」という天皇の秘書課を用意します。そしてそのトップ、蔵人頭に就いたのが当時の右大臣、藤原内麻呂の息子で嵯峨帝に仕えていた藤原北家の、冬嗣という人物でした。(同時に内麻呂は平城帝にも息子、真夏を仕えさせていた)

藤原冬嗣


嵯峨帝の病はなかなか回復せず、その間に病が回復した平城は自らの権力拡大を考え始めます。こうして、薬子の変が始まったのです。

3.「薬子の変」

810年9月6日、平城は国政の主導権を握るために平城京への再遷都を命令します。そしてこの時に平城側として加わっていたのが、平城に寵愛されていた、藤原仲成・薬子兄妹だったのです。

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一方、平城の動きを知った嵯峨側も迅速に対抗し、10日には近畿を守る三関を封鎖し、平城側の逃げ道を奪うと、藤原仲成を捕らえて平城との連絡を断ち切るのでした。

平城側も巻き返すために、12日に東国へと向かおうとしますが、やがてやってきた嵯峨側の前に平城京へと戻らざるを得なくなります。そして平城院は出家することとなり、皇太子も廃位され出家。さらに、捕まっていた仲成は父、種継と同じように射殺され、薬子は自殺。また、平城に仕えた真夏も失脚することになります。こうして「薬子の変」は終わります。ちなみに、廃位された皇太子、高岳親王はその後仏道修行のために唐へ渡り、インドへ向かったといわれています。

4.藤原北家の台頭

「薬子の変」の結果、仲成・薬子兄妹の藤原式家は多くの官人が処罰され、これ以降式家も下り坂になってしまいます。
また、南家も上の伊予親王の変以降は公卿がなかなか出せなくなり、こちらも勢力が落ちてしまいます。
一方で、「薬子の変」で嵯峨側につき、蔵人頭として変の勝利に貢献した冬嗣は、嵯峨天皇の重臣として出世し、翌年には公卿へと昇進します。ここから、藤原北家の発展が始まるのでした。

本日もここまで読んでいただき、ありがとうございました。
































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