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写真展鑑賞記録(1) 「質量への憧憬」写真集編

落合陽一さんの写真展「情念との反芻」と「燐光する霊性」に行ってきました.今回は長くなりそうなので,複数回に分けて書きたいと思います.発端は前の写真展「質量への憧憬」写真集を購入したことです.

質量への憧憬「情念への反芻」展 開催記念特別版

そもそも,メディアアーティストである落合陽一さんがなぜ写真展を?という疑問やそこに込めている思いは何だろう?ということが気になりました.落合さんと言えば以下のイメージ.

写真というオールドな装置を好み,写真展を行う動機は何だろう.これは実はステートメントを読めばすぐにわかることでした.というか,御本人がいろいろなところで言っているいますね.

自分が好きなところを少し抜粋します.

質量への憧憬
人が留められないものは何だろうか.共有できないものは何だろうか.時間,空間,瞬間,すべては失われていく.ありありとした解像度を体験し続けることは生きることだ.

~中略~

メディアアートにひかれた二つの気持ちは分解できる.誰も見たことがないものを見たいこと,刹那で失われる何かを留めておきたい体験の物象化だ.

~中略~

写真を撮ること,撮り続けることが好きだ.メディアアートとして表現することで作家として消し去ろうとした一人称が,写真やイメージを集合させることで浮かび上がる.

~中略~

物質としての写真はぶ地理的な存在になった写真の意味を瞬間や空間の永続性を得たもの,写真というマテリアルの追求だ.映像としての写真は物質性から時間と空間の刹那を切り出しながら,なお動的な現象を保つ,固定されない運動と現象だ.僕の作品のキーテーマである映像と物質はその橋梁を担うメディアアート的な表現だ.

写真を撮ることをメディアアート的な表現としてとらえ,かつ,メディアアートで消し去る本人の視点は写真を取ることでむしろ浮かび上がる.これに面白さを感じているんだなと思いました.


こうしたことを考えながら,改めて感想を書きたいと思います.

そもそも,「質量への憧憬」とは何なのか.

質量は物体の動かしにくさのことです.そして,写真の中に感じる質量は,どんなに高精細にとってもその解像度は現実に近づけない.つまり,質量そのものをを写真に留められないわけです.デジタルに持ちえない,質量をどんなに表現してもそれは"そのもの"ではない,そんな対象への憧れと思うと感慨深いです.

ツイッターもしているのでその添付もしてみます.

写真集と聞いて思うのは,冊子なのですが,リンクからもわかる通り,1枚1枚が独立して収納されています.プリント番号もされているため,唯一無二の一枚になっています.かなりの高級感とソルトプリントの存在感を感じていてエモい.

ソルトプリントはイルカNo.4を選びました.

かなり悩んだのですが,No1~4を見ているとストーリーが思い浮かびました.1では水面から1頭のイルカがこっちを見ていて,まさにイルカと波!な感じです.2枚目は2頭のイルカが写されており,「仲間と一緒なんだね!」という感じ.3枚目は打って変わって,激しい水しぶきがたっています.喧嘩したのか,急に激しい感じ.ソルトプリントファンには,こういうしぶきの写真が好きという人がいるようです.そして,4は1頭に戻ったイルカが波と同化するように泳いでいます.この起承転結的な感じの中で結を選んでみました.

※上記は私の解釈なので,全然違う意味かもしれませんし,そういった解釈は不要かもしれません.イルカたちは写真集のリンクで現在も見れるので画面ごしながら見てみるのもおすすめです.

写真集は200枚あるので折を見ながら鑑賞し,1枚1枚を部屋の中で飾れたらいいなと思っています.

次は「情念への反芻」展の感想に続きます.

#質量への憧憬 #落合陽一 #写真展 #感想 #落合塾 #買ってよかったもの

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