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木村伊兵衛賞について


結局は言葉の定義の問題になるのでしょうか、そのように思いました
モヤモヤ派は、写真(=静止画)賞なのに受賞作が動画なんて??
肯定派は、今や写真概念は拡張しており、動画を含むのは当然だと
世界的な流れでは、貪欲な現代アートに取り込まれた”写真”はその概念を急速に拡張させており、動画が含まれる事はすでに既成事実と言ってよいのではないかと思います。ここには議論の余地は余りなさそうです。
そうすると、あくまでこの写真賞において、応募規定がどうなっているか?ということに問題を絞る必要がありそうですが、ここが曖昧(に思える)事が議論を生んだ一因ではないかと思います。
(例えば、写真新世紀ですが、2015年から応募要項に動画も可能と明記しています。実際2015年の受賞作は動画作品でした)
一方木村伊兵衛賞ですが、朝日新聞出版のHP”木村伊兵衛賞とは”には、
>>写真の制作・発表活動で優れた成果をあげた新人。写真活動は雑誌、単行本、展示など広く一般に発表されたものとし、写真表現のあらゆる分野を含む。
とあり、動画への言及はありません。”写真表現のあらゆる分野を含む”の”あらゆる”に動画を滑り込ませることは可能な印象もありますが、写真新世紀の明快さと比べると、その違いは明らかです。近年(と言ってももう10年以上は経過していると思いますが)の写真概念の急速な変遷に写真賞の受賞対象規定文が追い付いていないようにも思います。
さらに、最終候補の選定にあたっては、
>>写真関係者の方々からアンケートにより候補者を推薦、選考委員が評議を重ね 、作家5人とその作品がノミネートされた。となっています。
つまり写真関係者個人の”写真”の定義は当然その個人にゆだねられており、統一されないまま、(もちろん選考委員の定義もですが)、候補作が選定され、”写真”賞の決定が行われているのです。まあこの辺りは重箱の隅をつつくように指摘する必要はないのかもしれませんが、レギュレーション違いの作品が混在する中、最終的に一作品を選ぶという事の割り切れなさが、今回の批判の中にはあるように思います。
審査コメントの中で、今回の作品(ビデオインスタレーションと説明されている)を言及するにあたり、動く写真、写真的なアプローチ、写真的なこと、などの文言が見られましたが、写真自体の定義(あくまでも写真賞の中での話です)を明確にしない中、このような言葉で解説を加えたとしても、(こと賞の選定に限って言えば)、アリバイ作り、後出しジャンケンの印象をぬぐいされないのではないでしょうか。
受賞対象に動画を含む等の言及がない状態で、一方世間的な写真概念の拡張(=動画)をある意味当然のものとして、選考を行う。この辺り(選考を受ける側にとって)不誠実ともとれるプロセスが、従来の写真派(この言い方も語弊がありますが)をいらだたせたのではないかと、そのように感じました。
今回の疑念がどの程度の規模のものかは分かりませんが、”写真”作家に誠実であろうとすれば、運営側が何らかの形で応募規定へ言及、変更がなされることもあり得るのでしょうか?。公正であろうとすれば、裁判における判例主義のような既成事実による追認は避けたいところで、授賞対象の文言の変更がなされるのかどうかに注目したいところです。

もちろん以上は、受賞作自体のクオリティとは何の関係もない話です。

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