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木村伊兵衛賞について 追記

受賞対象の規定を変更する主体は、朝日新聞社ということになるのでしょうか、それとも審査委員?ここはよくわかりませんが、今後さらに厄介な問題(もちろんAI問題です)が出現してくる可能性が高いため、何らかの対策を検討しておくことは必須のように思います。
写真と動画の違いはともかくとして、作品作成の主体が人間でない、ということになれば、これは今回の議論とは別次元の問題を引き起こすことになるのは間違いありません。AI作品であっても、作品コンセプトを作り上げ、プロンプトを作成するのは人間(=作者)だから、というエクスキューズも成り立ちそうですが、AIの変化は指数関数的です。来年あたりには、”木村伊兵衛賞を取れるような写真作品をプリーズ♡”と、この程度のリクエストでまとまった”作品”が生成される可能性もあり得るかもしれません。写真に限った話ではないですが、アートと生成AIの問題は、その定義を逆照射することは必至で興味が尽きません。
ただし最終的には、人間が自らの行為により生み出した直接的な結果である事(*)、その一点に価値は担保され、収束することになりそうですが・・・
(もちろんここにも抜け道はあって、将来的には創造性の枯渇に悩むアーティストが制作において(隠れて)AIを頼る、という現象は必発でしょうし(既に起こっているとみる方が妥当でしょうか・・)、その場合の作品/作者の関係をどう理解するのかという問題は、特に賞レースが絡むと収拾がつかない様相を呈するかもしれません。おそらく歴史の過程においては制作過程に生成AIを使用していたことが発覚し、受賞を取り消しされるアーティストが出てくるでしょう。
しかしこのような議論自体牧歌的で、近い将来においては、作品の制作主体としてのAIと人類の差別は無くなり、ただ対象物は鑑賞主体(あなた)へ与える影響のみで評価される時代が来るのかもしれません。もちろんその時代において作者は唯の記号(まあこれは現代でもそうですね。匿名、顔を出さないアーティストはその先ぶれかもしれません)であり、識別ID程度の意味になり、その生成主体が人間であるかどうか問をわれることはありません。人間の作者を対象とした賞などは酷いアナクロニズム、歴史の遺物になっているかもしれません。
”賞が欲しいなんて自己意識がまだ残っているなんて、いったい如何したというんだ。正気かね。BC(bleaching center)の予約をしておきなさい・・・”

(*)例えば唐突かもしれませんが100m走を自動運転車が3秒で走ったところでそれだけのことです。人間が9秒台で走るからこそ意味があるので、100mをどれだけ速く走れるかだけに基準を合わせても、そこには人間の”営為”としての意味はありません もちろん自動車はオリンピックで金メダルを獲得することはできません)

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