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春風のメリーゴーラウンド

春風が頬をなでる4月の午後、東京の下町にある小さな遊園地「夢の国」。
メリーゴーランドのオペレーターとして働く桜木美咲は、
いつもの場所に立っていた。
30歳を目前にした彼女の瞳には、どこか寂しげな影が宿っていた。

華やかな音楽が流れ、色とりどりの馬が回る。
美咲は乗客たちの安全を確認しながら、ふと目を上げた。
そこに一人の男性が立っていた。
黒縁メガネをかけ、少し癖のある茶髪をした30代半ばくらいの男性。
彼は懐かしそうな表情でメリーゴーランドを見つめていた。

「よろしければ、乗ってみませんか?」
美咲が声をかけると、男性は少し驚いたような顔をした。
「あ、いえ…大人一人で乗るのは少し…」
「大丈夫ですよ。大人の方も結構乗られますから」
男性は少し迷った様子だったが、結局乗ることにした。
「田中健太郎です」
名乗る彼は、白い馬に跨った。
美咲は、健太郎の姿を見ながら、何か懐かしいものを感じていた。

それから数日が過ぎ、健太郎は毎日のように遊園地に来るようになった。
美咲と話をするのを楽しみにしているようだった。
ある日、閉園後に二人で歩いていると、健太郎が口を開いた。
「実は、僕にはある理由があってここに来ているんです」
美咲は静かに聞き入った。
「15年前、僕には婚約者がいました。
彼女はこの遊園地が大好きで、特にこのメリーゴーランドが…」
健太郎の声が震えた。
「でも、結婚式の一週間前に事故で…」

美咲は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「それで、ここに…」
健太郎はうなずいた。
「彼女の思い出に浸りたくて」

その夜、美咲は眠れなかった。
健太郎の話が頭から離れなかった。
自分の中にあるわだかまりと向き合わざるを得くなった。

日々が過ぎ、美咲と健太郎の距離は少しずつ縮まっていった。
しかし、美咲の心には常に重いものがのしかかっていた。

ある日。その日は午後過ぎから天気が急に荒れた。
健太郎が傘を忘れて来たのを見て、
美咲は自分の傘を差し出した。
「ありがとう、美咲さん。
一緒に帰りませんか?」

美咲の心臓は大きく跳ねた。
すぐに自分を抑えた。
「ごめんなさい。今日は早く帰らないといけないので…」
健太郎は少し寂しそうな顔をしたが、理解を示してくれた。

その夜、美咲は再び眠れなかった。
鏡に映る自分を見つめながら、心の中で叫んでいた。
「私には資格がないの…健太郎さんを好きになる資格なんて…」

夏も終わりに近づいたある日、健太郎が遊園地に来なくなった。
一週間が過ぎ、美咲は不安に駆られていた。

突然健太郎が現れた。
彼の表情は、これまでで見たことのないほど真剣だった。
「美咲さん、話があります」

二人は閉園後、メリーゴーランドの前に立った。
「僕…」健太郎は言葉を探すように一瞬黙った。
「婚約者の話は嘘だったんです」
美咲は驚きのあまり言葉を失った。

「15年前、僕はここでアルバイトをしていました。
ある女の子と出会った。彼女はいつもメリーゴーランドに乗っていて…」
美咲の目に涙が溢れ始めた。
「その子は、いつも同じ白い服を着ていて、長い黒髪が特徴的で…」

「もういいです」美咲が遮った。
「私…覚えています」
健太郎は静かにうなずいた。
「あの日、君は突然姿を消した。それから15年、ずっと探していたんだ」

美咲は震える声で話し始めた。
「あの日…私は事故を起こしてしまったんです。
メリーゴーランドの安全バーが外れて…
幸い大きな怪我はありませんでしたが、私のミスで…」
健太郎は美咲の手を取った。
「それは事故だよ。君のせいじゃない」

美咲は涙を流しながら続けた。
「でも、私にはわだかまりがあって…だから、ここでオペレーターとして働き始めたんです。償いのために…」
健太郎は美咲を優しく抱きしめた。
「もう十分だよ。君は誰よりも一生懸命だった」

刹那、二人の周りでメリーゴーランドが動き出した。
誰も操作していないのに。
華やかな音楽とともに馬たちが回り始めたのだ。
美咲と健太郎は驚きながらも、
どこか不思議と納得したような顔を見合わせた。

「これは…」
健太郎が言葉を探す。
「私たちへの、祝福なのかもしれません」
美咲が答えた。
二人は手を取り合い、ゆっくりとメリーゴーランドに乗った。
回る馬に揺られながら、
美咲は長年抱えていたわだかまりが溶けていくのを感じた。

健太郎は美咲の手をぎゅっと握りしめた。
「一緒に新しい思い出を作っていこう」
美咲はうなずき、健太郎の肩に頭を寄せた。
メリーゴーランドは、二人を乗せてゆっくりと回り続けた。
新たな人生の幕開けを告げるかのように。
過去の影は、もう、消えた。

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