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未来へのシフトには、国が本気になるしかない。

あなたには「推し」というのがいますか?
まぁ、お気に入り、みたいなことなのでしょうか。
そいう「推し」を応援する活動のことを「推し活」というらしいです。

最近、私もかなり「推し活」をしています。
私の「推し」は何人かいますが、
その中の筆頭の二人というのが(筆頭が二人は変かな?)、
小川淳也さんと、江守正多さんです。

小川淳也さんは立憲民主党の政調会長です。
江守正多さんは国立環境研究所の方で気候変動の専門家です。

お二人に共通のキーワードが三つあって、
ひとつは、東京大学。
ふたつめ、持続可能性。
みっつめは、対話です。

そのお二人が揃って出演されるYouTubeの生配信があったので、
当然、私は観たわけですが、そのタイトルは、
「気候変動と脱炭素ーウクライナ侵攻でエネルギー危機が加速ー」。

とても気になる内容であり、
その他のパネラーの方も非常に素晴らしい方々だったので、
議論はとても有意義でした。
そんな中で私がひとつ気になったことがあるんですね。

それは再生可能エネルギーの普及に関することです。
なぜ日本では再生可能エネルギーへのシフトがこうも遅れ、
スムーズにいかないのか?ということを考えていたんです。

今日はそのことについて、少し書いてみます。

皆さんは2006年に公開されて大ヒットした
「フラガール」という映画をご覧になったことがあるでしょうか。

もし未だでしたら、是非ご覧ください。本当にいい映画です。

その映画は実話をもとにしていて、題材になっているのは
福島県いわき市にあるレジャー施設、「常磐ハワイアンセンター」です。
今のスパリゾートハワイアンズですね。

もともといわきは常磐炭鉱という炭鉱の町で、
石炭がエネルギーの中心だった時代には非常に栄えていたんです。
ところがエネルギーの中心が石炭から石油に変わっていき、
石炭産業は斜陽に。

そこで、いわきの町をなんとか存続させるために
炭鉱で働く人々が立ち上がって、いちからつくりあげたのが、
常磐ハワイアンセンターなのです。その苦節のストーリーが
映画「フラガール」なんですね。本当に感動します。

私がここでちょっと気になるのは、
常磐炭鉱が斜陽になったとき、国も行政も、
何も助けてくれなかったということです。

だから炭鉱の人々が自ら立ち上がった。立ち上がらなければならなかった。

今、人類は持続可能性社会へのシフトのために
四苦八苦しているわけですが、
その原因は、「今まで」との決別がうまくいかないことです。
既得権益など、いろいろな意味がありますが、
産業の構造を新しいものに根こそぎ変えてしまった場合、
今までその産業で禄を食んでいた人はどうすればいいのか?という
トレードオフの問題があるんですね。

SDGsでも「誰一人取り残さない」と謳っているのは、
そう言わなければ大多数からの賛同が得られないということも
あるはずなのです。

そういう意味では、石炭から石油への変革は、
ものすごく乱暴に行われました。
「自己責任」ですよね。そういう例は多いと思います。

すぐに思い浮かぶのは富士フイルムです。
写真がデジタル化されたことで、
フイルム産業そのものが存続できなくなった。
でも、誰も富士フイルムのために雇用の代替案など
出さなかったと思います。
同じように、町の写植屋さんなんかも姿を消しました。

どうして再生可能エネルギーへのシフトをするというときに、
火力発電や原子力発電の産業に従事する人は
守らなければならないのでしょうか。

石炭から石油へのシフトと、何か、ちがうのでしょうか?

・・・ちがいますね。よく考えてみると。
ここ、とてもだいじなのです。

石炭と石油は、エネルギーの効率や利便性などがちがったのです。
つまり、石炭より石油の方がいい商品だったのです。
だからまるで川の水が上から下に流れるように、
あっという間に石炭は石油に取って代わられたわけです。

これは「市場の原理」によってなされた変化であって、
巨大スーパーができたことで商店街が衰退するのと同じ現象です。
消費者がそちらを選ぶ、という流れに抗うことができなかったわけです。

富士フイルムの例や写植屋さんの例も同じですね。
デジタル化の波に押し流されたのは、
ユーザーにとってそちらの方が便利だったからであって、
市場原理が働いた結果だったわけです。

それに対して、再生可能エネルギーへの転換はどうでしょうか。

化石燃料を使った発電による電気と、再生可能エネルギーの電気。
これは同じ電気ですね。電気に色も匂いもないですから。

そうなると、市場の原理の力で消費者が化石燃料から
再生可能エネルギーへと自然とシフトするには利点が少ないんですね。

でも、実際はどうでしょうか?

実は私は昨年、防災の意味もこめて家庭用のポータブルソーラーパネルと
ポータブルのバッテリーを買ったのですが、
初めて太陽光で発電し、電気をバッテリーに貯めたときは感動しました。

だって、エネルギー源はただなのですから。
今までは電気を得るには何かしら電気の供給源と
電線でつながっている必要があったわけですが、
ソーラーパネルはどこにもつながっていません。

ただ太陽の光を集めて電気を発電しているのです。

もしEVを自前の太陽光発電で走らせたとしたら、
今のガソリン代のような燃料費を払うことなく、
車を走らせることができるわけです。・・・すごくないですか?

ここがポイントじゃないでしょうかね。
再生可能エネルギーを普及させるには、エネルギー源がただである、
ということをユーザーが実感すれば、一気に普及するでしょう。

しかし、ここでももうひとつ問題がありますね。
エネルギー源がただであるということは、その事業を運営しても
まったく儲からないということです。
そんな産業に従事する人がいるでしょうか。

そう考えていくと、これからは電力事業は国有化し、
電気はただか、あるいはものすごく安い料金しかとらない、
という社会にしていくしかないのではないか?と思うのです。

かつての郵便局のイメージですね。

そもそも農業は政策で守らなければいけないものですが、
市場の原理にさらしてはいけない仕事というのがあると思うのです。

医療、介護、保育、教育などの分野は「商品」として売るものではなく、
どんな人にもあまねく手が届くものでなければいけません。
ですから、私はこのような仕事に従事する人には、
国家が責任を持って給与を支給するという
仕組みづくりが必要だと思うのですが、

これからの時代がもし、デジタルインフラの普及を前提としているなら、
電力と、通信に関わるものも、国民に無償で提供すべきと思います。
それは、空気と同じようなものであるはずですから。

もちろん、そのような分野ではイノベーションが必要ですから、
然るべき人には高額の処遇を用意する必要もあるでしょうが、
それは公共の福祉に資するものだと思います。

昨日の生配信の中で、小川淳也さんは、
日本が持続可能な社会システムに変革していくには、
雇用の流動性が必要だ、という意見を言っていました。

退職金があり、それを税制的に優遇する国は日本以外にないと。

その言わんとしているのは、こういうことです。

例えば電力事業を再生可能エネルギーに切り替えるとなると、
そこで働く人々が今まで積み上げてきた既存の産業基盤から、
新しいものへと乗り換えていく必要があるわけです。

もし、欧米のように、仕事というのはどんどん変えていくものだ、
という文化があれば、
例えばもう石炭産業に明日はないなと感じれば、
従業員は自分からもっと未来のある産業へと転職するだろう、
ということですね。

しかし、日本では長く終身雇用、年功序列という企業文化がありました。
最近ではそれは崩れかかっていますが、
それでも、そのような文化が醸成されたのは、
日本人の中に「安定志向」や「前例踏襲」という性格があるからでしょう。

文化というのは、人々の性格というか、国民性と密接です。
もともと仕事を自由に渡り歩くことが当たり前の文化の人々と、
日本人は根っこのところでちがうのだと思います。

ですから、今、この段階で急に退職金の制度だけ廃止しても、
企業が喜ぶだけで、多くの高齢者を糸の切れた凧にしてしまう
可能性があります。
あるいはそう誤解して不安に思う人も出てくるでしょう。

地球温暖化を止めるためには、過剰消費社会を
ドラスティックに変える必要がありますから、
覚悟は必要だと思いますが、性に合わなっことを強制すると
また何か別の破綻が起こるように感じています。

私は、エネルギー産業を国有化し、非営利にして、
電気を無償にすることがいいと思います。
今ほど安定的な供給がなくても、ただであるなら、市場原理が働いて
生活者は新しいエネルギー源に切り替えると思うからです。

もちろんハードルは高いですが、
すべてを市場原理を前提に考える「癖」から卒業することが
人類に課せられた課題のように、私は思っています。

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