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ロスジェネが変われば、社会が変わる。

ロスジェネという世代をご存知でしょうか。
ロスト・ジェネレーションの略ですが、日本では1970年から
1982年くらいに生まれた世代です。

ちなみに、私や立憲民主党の小川淳也議員は1971年生まれなので、
その第二期生です。

私は1994年の4月に社会に出た世代ですが、
バブルが崩壊して就職戦線の様子が急激に変化したのが
ひとつ上の学年の先輩方が就活しているときでした。

1992年に社会に出た人までは、ほぼ誰でも志望する企業に入れたし、
企業は採用した学生に逃げられないようにするために、
あの手この手を使っていました。

私が大学2年までは、就職のことなんて特に考える必要はなく、
時が来ればどこにでも入れる、くらいのイメージでした。

そう、世の中は「一夜にして変わった」というような雰囲気でしたね。



ロスジェネというのは、失われた世代と言われます。
私たちの世代が学校教育を受けていた時代は、
レールにさえ乗っていれば生涯安心なのだ、
という雰囲気に満ちていました。

その結果、危機に対応する能力をまったく身につけずに
社会に放り込まれてしまった世代と言えます。
また、バブルの崩壊による非正規雇用へのシフトが
ロスジェネ化に大きく拍車をかけてしまいました。

今やロスジェネを取り巻く状況は8050問題に代表されるように
(80歳の親が50歳の子供を養っている問題)
非常に深刻ですし、私もロスジェネ世代ですから、危機感があります。

そもそもロスジェネって、どうしてできてしまったんでしょうね。
私なりに、その時代を生きた人間として少し考えてみます。



ロスジェネの特徴を私なりに一言で言うなら、「シラけ世代」です。
「無関心世代」と言ってもいいかも知れません。
何にシラけ、無関心かというと、「社会」に対してです。

で、なぜそうなのかというと、
恐らく社会にうまく参加できなかったからなのだと思います。
社会が我々世代の存在を欲してくれなかったんですね。

自分たちが社会に参加しなくても、それでも社会はそれなりに動いていく。
そうなると自分たちは社会から必要とされない、と感じるようになります。

どうせ世の中なんて、選ばれた一部の人間だけで運営されるんだろ?と。

事実、日本社会はロスジェネを必要としませんでした。
けれど、人間にとって最も大切なことって、
自分が他者から必要とされるという実感なんですよね。
その部分を根こそぎ奪われてしまったのがロスジェネなのだと思います。

その疎外感、蚊帳の外感が、ロスジェネのシラけの原因だと思います。
あくまでも私見ですが。



もう少し掘り下げてみましょうかね。

小・中・高・大学までの教育の過程を通じて、
私たちは時間さえ経てば必ず最上級生になれました。

最上級生は、やはりその学校の中心です。
「自分たちの代」ってやつですね。
下級生のとき、どんなに虐げられたとしても、
時が経てば自分たちのときは来るのです。

それが「学校」というものですよね。

私たちの頃、学校では学年間の仲は悪いのが普通でした。
今みたいな縦割り学習なんてなかったですからね。
だからこそ、最上級生になることの意味は大きかった。

その仕組みになんの疑いもなく馴染んでいた我々は、
恐らく社会に出ても、同じように時間が立場を作ってくれるのだろうと
心のどこかで思っていたはずです。
所謂「年功序列」という名前は知らなかったとしても、
そもそも学校が年功序列だったわけですからね。

ところが、いざ社会に出てみたら、まず就職ができない。
運良く就職できたとしても、
それまで当たり前だった年功序列システムが崩壊に向かっている。

そして、80年代というキラキラした時代を作った世代の人たちが、
自分たちの価値観でいつまでも(今でも)
一定の場所に居座り続けている。

そういう状況の中で、自動的に出番が来ると思っていた我々の世代は、
急にシステム変更にあって、
人によっては頭が混乱し、人によってはフテ腐れている間に、
どんどん時間だけが過ぎて、今や50歳になろうとしているわけですね。

ネットの記事で読みましたが、
人手不足の介護の現場でも40代のロスジェネ男性は雇いたくないそうです。
その理由は、仕事をすっぽかしたり、同僚とトラブルを起こしたり、
そんなことが起こすのでは?という不安があるかららしいです。

こんな理由を言われるということは、
それなりに、そう思われるだけの原因もあるのだろうと思います。

私もツィッターで
「世の中を良くするためにロスジェネが頑張らなければ!」
という趣旨のことを書いた時、
「自分はもうそんな気起きないので、勝手にやれば?」的な
リアクションが結構あって、
こりゃもうダメだな、と感じたこともあったのです。

しかし、私はなぜロスジェネがそのような精神状態なのか、
もういちど向き合うべきなのではないかな?と思うようになっています。
だって、人数が多いですからね。
ロスジェネが本気になったら、やっぱり影響力はあるはずなんですよ。

ロスジェネがイキイキできれば、社会も企業も、
もっとイキイキできるはずなんですよね。



世の中が必要としてくれなかった。

これは本当に悲しいことです。
そんな流れの中で、たくさんの人々の才能ややる気が
発揮される場もなく失われていったことと思います。

でも、これから社会は変わっていきます。
言ってみれば、ロスジェネを闇に葬り去った力学が、
そろそろ寿命を迎えようとしているんですよね。

世の中ではダイバーシティとか、インクルージョンなんて言っています。
こういう言葉は、性別や国籍や、障害など、誰がみても
マイノリティであることがわかりやすい人々に向けて発信されていますが、
ロスジェネは体は五体満足でも心が蛻の殻になった
「世代的マイノリティ」です。

ダイバーシティが本当に追求されていけば、
「見た目にはわからないマイナー性」
という部分までも光が当たるでしょう。
まだそこまで進んではいませんが、誰もが活躍できる社会こそが
あるべき姿であるという世の中への動きがある今こそ、
最後の勝負にでるときなのではないでしょうかね。



ちょっとやり慣れないかも知れないけれど、
自分から社会に参加すればきっと世界は変わるはずです。

社会の透明性を求めて自分たちの手で世の中を変えようとすれば、
少なくとも今よりは生きやすい社会になるはずです。

政治の世界にも、ロスジェネ世代の代表として、
社会を変えようと立ち上がっている人はいます。
前述の小川淳也議員や、れいわ新選組の山本太郎代表もその一人でしょう。

私が生きてきた50年の中では、
今ほど社会が本質的な変化を要請されているときはありません。

しかもこれは世界中で起きていることです。
Z世代と呼ばれているこれからを担う世代とロスジェネは、
もっとコラボレーションすべきだと思います。

きっとできます。

シラけ社会が変われば、きっと何かが変わっていきます。
政治も経済も、根っこから変えていけると思います。

人生100年時代とは言いますが、
きっと我々は100までは生きられないでしょう。
残された時間、我々が生きた証を刻みませんか?

残された時間を何に使うのか。
使命さえ見つかれば、誰もが人生の勝者になれると思います。

戦う相手は他でもない自分自身です。
私ももうひとがんばりしてみます。

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