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最近の関心「小説はフィクションでしかない」と思った話

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2023年夏

 私はある友人(以下A)を救えなかった。詳しくは書かないが、Aは友人6人グループの1人。(亡くなったというわけではないが)Aは私の手が届かない世界に行ってしまい、もう関わることができなくなってしまった。

数ヶ月後

 グループのある1人(以下B)から、「Aを誘ってご飯に行こう」と言われ、私は断った。なぜなら、「私たちと会ったところでAは本当のことを隠して嘘をつく。誘うことは、私たちがAに嘘を付かせることになり、そんな姿を見るのが辛かった」からだ。Bは言った、「そんなの気にしなくてもいい。あの子は息を吐くように嘘がつけるんだから」。私は言う、「そんなはずはない。きっと苦しめさせるから会いたくない」。Bは私の意思を尊重してくれた。
 そしてそこから、「息を吐くように嘘をつく」という言葉が気になった。なぜなら、私は嘘をつくことがとても辛いことで苦手だから、理解・共感できなかったからだ。そしてAはきっと私たちには言えないことだらけで、それを隠すために多くの嘘をつかないといけない。私にとってそれは考えただけでも辛く、しんどいものだった。

2024年3月

 学校帰りの電車内である小説を読み終えた。スマホで感想を書いて、他の人の感想も読もうと題名を検索した時、その小説が映画化されていたことを知った。自宅の最寄り駅まであと30分、他に読む本を持っておらず、登録しているアマプラにあったので時間潰しに観ることにした。
 その本を短期間で読んだのもあり、シーンに該当する小説の文章が頭に浮かぶ。
「ここのシーンは、女の子の財布の中が清楚な見た目に反してレシートがごちゃごちゃで男の子がその意外さにギョッとするところだ」と思い切る前にシーンは変わった。え、早すぎないか。絶対今の一瞬でこんなこと思い切れないじゃん。その時、ずっと頭の隅で考え続けていた「息を吐くように嘘をつく」が浮かび上がってきた。もしかすると人はあまり何も考えていないのでは?
 高校の現代文の時間に「小説は自分1人では体験しきれないような経験を伝え、自身の人生を豊かにする」という先生の言葉で今までなんとなく感じていたことがはっきりと言語化され、それから私は小説をより自身の人生の身近なものとして考えるようになった。小説で語られる「自分が一生経験するはずもないようなことをする登場人物の考え」を知ることを面白く感じた。そして私はいつしか、皆が小説のように状況を読み、考えているのだと思い込んでいたのだろう。

さいごに

 小説はフィクションで、映画は現実なのかもしれない。本当は女の子が財布を広げた瞬間に「清楚な雰囲気なのに財布の中身こんな感じなの?意外と男っぽいところもあるのかもしれないな」なんてこと以上に、何も何も考えていないのかもしれない。そうすると、「私がAと会って話す時にきっとAはいろんなこと嘘ついて、そしてその嘘を隠すための嘘を考えて、また考えて、考えて…」なんてことは無いのでは。現実の人間はもっと何も考えていないのではないか、小説はフィクションでしかないのでは、と思った。

 もちろん、いろんなことを考えて話す時もある。しかし、そうでない時もある。私は、いろんなことを考えそれを教えてくれる小説と現実に境目があることを知らず、同じに考えてしまっていた。

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