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さらば、全てのエヴァンゲリオン

観た当日に日記を書いたが、あの時は喪失感やら虚脱感やらでただただ「終わった」ということしか浮かばなかった。
これも8日に書き始めてはいるが、まとまるのは2回目か3回目を観終えてからになるだろう。

3/24に2回目を観てきた。
一から全部書き直そうかとも考えたけど、初見の素直な感想も残しておきたいので追記していくことにする。


そうまとめてきたか

1回目のスタッフロールが始まったとき真っ先に感じた。
エヴァのヒロインといえばレイとアスカだが、今作においてアスカとは14年前の想いを互いに告白している。
互いに「好きだった」と言っているのはTV版からは考えられないが、破→Qと観ているとそれによって和解が成立しているので自然な流れに感じられた。
一方でカップリングとして成立しないと公式に明言されたようなものでもある。

自分自身シンジに感情移入してこれまで観ており、アスカ派だったのでおそらく8年の歳月がなければ受け入れられなかったと思う。これがQから2年程度の空白期間だったら拒絶していたかもしれない。
アスカは身体こそ14歳のままだが、精神は破からの14年分成長している。
俺自身も同様に歳を取ったのだと思わされた。

どちらかというとアスカもレイ同様のパイロット、つまりクローンであると明示されたことのショックの方が大きい。
レイだけだと思っていたが、思えば破の時点で「全てにスペアがある、パイロットにも」と言われていたので一本取られた。全く別人の予備だと思っていたが、辻褄は合うし効率的だ。

(2回目視聴後の追記)

アスカが過去の思いを告げた後の「私だけ大人になっちゃった」は刺さった。
劇中では誰に対しても口調はきつかったが、このセリフだけ少女っぽさがある。

サクラの愛憎が半ばネタとして扱われているが、アスカも同様に割り切れない複雑な感情を抱いていたのだろうと思わせる。
「なっちゃった」ということはなりたくなかったのだ。同じ時間を歩みたかったという未練が垣間見えてただ最高だった。


レイの死はTV版と漫画版ではシンジを庇った自爆として描かれた。どちらもその後に3人目が登場するが、今作では破のレイに戻る。
破のレイは使徒に特攻しているが、シンジの視点では助けられたことになっているので新劇場版では初めて見ることになる。正直そこで死ぬのかよ、と思った。

TV版・漫画版はエヴァに乗っていたのでワンチャン奇跡的に助かったかも、とシンジは思えただろうが今作は目の前でパシャ。それもようやく失語症を克服し、メンタルも回復してきていたシンジの前で。
死ぬところを見てもらうことで忘れない存在になろうとまでは考えていないはず(第三村でもレイが死を見る場面はなかった)だが。


最後の駅でシンジはマリと手を繋ぐ。手を繋ぐという行為は新劇場版全作において象徴的に描かれていた。
序ではセントラルドグマでミサトと、破では使徒に囚われたレイと、Qではカヲルと。
どの場面においてもシンジを救ってくれる相手と手を繋いでいる。序とQは言わずもがな、破もレイを助けることでシンジはアスカを見殺しにした過去から救われる。

エヴァンゲリオンの存在しない世界でマリと手を繋ぐ、という行為はヒロインとしてマリを選んだと解釈できる。
LAS派としては非常に残念だが、これは既に互いがケリをつけたので仕方ない。レイにしなかったのは黒レイが消え、白レイも実体があったか明確には描写されていない。というのに加えてバランスを取るためでもあるのだろうと邪推する。
マリはかなり好きなキャラなのでアスカでないことは残念だがなしではない。


NERVとの最終決戦を前にミサトとシンジは和解する。Qでボロクソに言われていたことも多少は関係あるのかもしれないと思うと少しご都合主義にも思えたが、その後の特攻を考えればあれも納得できる。

どちらかというとあそこでサクラが乱入してミドリのセリフを代弁するかのように捲し立てるのが受け付けなかった。パンフを読んで飲み込めたが、あまりミドリのキャラクターが好きではなかったので当初はヘイト値を分散させにきたかと思ったほどだ。

(2回目視聴後の追記)

1回目ではあまりセリフを覚えられていなかったが、視聴済みの人たちが盛り上がるのもわかる。ヤンデレとも少し違う気がするが、関西弁に帽子とエプロンで基本的にはシンジに優しい。これは性癖に刺さる。何なら関西弁だけでも刺さる。

初見ではシンジへの思いが異性に対する好意だと思わなかったが、2回目と帰還直後にアスカが言った「女房か」というツッコミで碇サクラ説もないとは言い切れない気がしてきた。

それでも公式的にはマリendなのだろうけど。


旧作を思わせる演出

新劇場版しか知らない人には何だこれはと思わせたであろう舞台セットの演出、劇中劇のように映し出されるTV版のタイトルや映像、新劇場版で見たことがあるカットの挿入に画コンテ。

今回劇場で味わってみて、家の小さな画面で見ていても別物だと実感した。
旧作を見たときはそういう演出があると知っていたことも大きいと思うが、それでも少し面食らった。特に舞台セットの演出と様々な場所で戦う演出。
裏宇宙とは何か全く語られていないが、ああいう演出が入るのは精神世界だったので今作でもそれは変わらないだろう。

巨大なレイの顔も旧劇場版と同じだが、陰影のクオリティは物足りなかった。あるいはあえて3Dモデルっぽさを残したのかもしれないが。

(2回目視聴後追記)

あれは旧作からのファンへのサービスなのではないだろうか。
おそらく今の庵野監督なら別の表現を取ることもできただろう。初見では苦笑にも近い感情があった。
2回目ではフラットな気分だったが、「ああ、エヴァといえばこれだな」と思った。その時点であの描写は大成功だった。

画コンテが終わるのはマリがシンジを迎えにきたタイミングだ。そして実写を使った宇部新川駅のラストに繋がる。
最後に「エヴァっぽい」演出をあえて入れることで、「こういうのももう終わりだよ」と言いたいのではないだろうか。


2回目を観終えて

初見では感情の整理ができないまま展開を追うのに必死だったが、時間を開けたことで気構えなく観ることができた。

批判的な意見も目にしたが、綺麗に閉じたと思う。
キャラクターに自分を重ねることはもうないし、庵野監督からのメッセージとしては「これで終わりです、楽しんでもらえましたか」くらいのものだろうと感じた。
どんなにうがって見ても「僕は奥さんと出会えて幸せです」が精々で、自分に何か言われているような気にはならない。

そう感じるのは「大人になれ」と言われる前に自分が大人になってしまったからなんだと思う。

アスカの処遇についてはLAS界隈の落胆があるものの、ああして互いにケリをつけたということで良いのではと素直に思えた。
ケンスケの立ち位置が異性のパートナーというよりも保護者に近い描かれ方だったことも多分にあるが。

13号機と初号機が槍を刺すところはユイだけでなく、ゲンドウもまたシンジに生きろと言っているのだと思うと泣けた。
ミサトの最期もだいぶ冷静に見ることができた。Qの時点でクルーに説明しておけよ、という気持ちはあるが。


初見の時はこれでエヴァンゲリオンという作品は完全に終わった、つまり死んだと思ったが、「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」と「また会うためのおまじない」というセリフから、続編こそないが何かしらの形でまた登場する機会はあるのではないかと思うようになった。

ジブリの宮崎監督もトトロを別作品に登場させているし、そういった形でまた会えるのではないだろうか。
逆張りしてやらないことも十分あり得そうだけど。


ありがとう、全てのエヴァンゲリオン

俺もアスカと同じく、シンジより先に大人になってしまっていた。だがそのきっかけは間違いなく新世紀エヴァンゲリオンにあった。
空白の14年ならともかく、もし続編が出たとしても観ることはないだろう。これ以上は蛇足になる。

自分という人間を考えるきっかけとなり、人間観のベースになり、希望の一つの形を見せてくれた作品だった。

今の素直な気持ちは「さようなら」よりも「ありがとう」の方が合っている。

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