体験がもたらす作品クオリティー

おおたしじみさんの投稿を読んだ。

文中で引用されたデーブ・スペクターさんの発言
「良いものを知らない人は良いものを描写できない」
は、まったくもってその通りだと思う。

おおたさんの
描写にはコストをかけているのに、描写されるものにコストがかけれられていない
という言葉にもうなずける。

投稿ではアニメ作品が例に挙げられているが、これは小説でも同じことが言えると思う。自身の体験や取材をベースにしたものと、資料だけで書いたものとでは読み手が感じるリアリティーは大きく異なるだろう。

だが描く世界の全てを体験することは難しい。
歴史小説の書き手は文献に当たり、資料館やゆかりの地を訪ねる。
現代小説であれば、舞台として設定した場所を歩くことや、設定した主人公の世界を体験することもできなくはないだろう。

その全てをもってしても補えないことがあるだろう。ここ2年は、外国を舞台にした作品のために渡航することが困難な状況だったし、プロの小説家でもなければ材に経費と時間を注ぐわけにもいかない。

そんなときの私は、映像による疑似体験を選んでいる。
文章による疑似体験もできなくはないが、文章表現が原典に引っ張られてしまう。
映像は、100人いれば100通りの受け止め方がある。
視聴者のパーソナルな感性がすなわちオリジナルの文章表現になると思っている。

リアリティーのある作品を生み出すには、実体験をすることがベストだが、疑似体験も次善の策として悪くないなと思っている。

想像に頼るだけの作品は絵空事にすぎない。




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