質問には、その人のすべてが現れる。
そう言っても過言ではない。
すべてってほどではないけど、その人の理解度や態度など、ずいぶん多くのことがわかる。
だから慎重であらねばならないのだけど、だからといって怖気づいて質問をしないというわけにもいかない。
質問は大きく2つに分けられるように思う。
・一つは自分の知りたいことを尋ねる質問。
・もうひとつは、相手の知っていることを引き出す質問。
両者は似ているようで大きく違う。
前者は自分はその場に留まったまま相手の側に来てもらうのに対し、後者は自分から相手の中にダイブしていくことになる。だからある意味で、正反対であるとさえ言える。
だけど多くの場合、質問は前者を指す。自分が知りたいことを知ろうとする。
このタイプの質問はごく普通のようでいて、非常に大きな問題をはらむ。
なぜなら基本的に人は、自分の知りたいことしか知りたがらないし、自分の見たいことしか見ない。だから自分の知りたいことを尋ねるとき、往々にして質問者の中にすでに「こう答えてもらいたい」という模範解答がある。
インタビューされる側、つまりインタビュイーがその通りの答えを出せば満足し、そうでなければ消化不全感を抱く。これは出版業界などでもけっこう広くまかり通っていて、意思疎通の不全を招く。
いくら返答しても「納得のいく説明を求む」と繰り返す類の問答はすべてそれ。政治とかでもよくありますね。それはインタビューの頭の中にある「模範解答」を、インタビュイーが答えないということ。つまりは誘導尋問だ。誘導尋問に対して、自分の思い通りに応じれば満足し、そうでなければ消化不良や意思疎通の不全を感じる。
例え満足いく回答が得られたとしても、その回答はすでに自分の中にあるものだ。得られるのは満足感だけで、新たな知見や知識は得られない。そういう回答が得られる時はだいたい、相手にインタビュアーに近づくメリットがある場合か、カウンセラー的な善意で寄り添ってくれた場合だ。
共感を得たいなら、それでもいいだろう。ただ世の中には満足のいく回答を与えるのに長けた人がいる。でもその人はその見返りにあなたから何かを奪っている。共感を与えることで得られるメリットが、その人にはあるのだ。
では本当に知的な満足が得られる質問とはなにか。
それは相手にダイブする質問だ。
決して誘導せず、抵抗させず、内側にダイブする。
それにはスキルが要るのだけど、簡単な方法がある。
黙ることだ。
だいたいの人は話したいことがある。黙っていると沈黙を埋めようとして自分から話し出す。でもただ黙り込んでいるだけでは、発展性がない。
沈黙よりマシな質問を考えなければいけない。
沈黙より質問は、相手が自力では言語化できない知恵や衝動に、言葉を与える手助けをする。
これはモリで川魚を突くのに似ている。
じっと気配を殺しながら全身全霊で対象を観察し、適した場、適したタイミング、適した角度で、適した言葉による、最適な一撃を繰り出す。
それがピタリとハマった時、共感とは次元の違う快感がある。
例えるならなんだろう。洞窟の奥で宝物をみつけたみたいな。
私は共感よりもそちらの快感が勝るから質問にこだわるし、その妨げとなるような言葉はあまり発しない。
そういう質問力をいまよりもっと磨きたいと思う。そうやって誰も知らない金脈を死ぬまでにひとつでも多く掘り当てたい。
誰の中にでも金脈はある。それを掘り当てるのは単純に楽しい。
でもそのスキルはわたし程度であっても、なかなか説明するのが難しい。ひたすら相手を観察すること、相手を知ろうとすることとしか言えない。
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