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メメント・モリなんて言われてもね

メメント・モリ。死を思え。

明け方頃に街を出歩くと、夜の名残を生々しく感じることがある。小動物の死骸が転がっているからだ。でも地域の清掃員の皆様方の手によってそれらは出勤時間には綺麗サッパリ片付けられてしまっている。

これだけ死が日常から切り離されてしまった時代もなかなかないだろう。
死を間近に感じることなんて、ほとんどない。いいとこ親族や友人の最期に接する時くらい。それもごくたまになので、死はなんだかうすぼんやりと遠いところにある。のどかなものだ。

現代を生きる多くの人にとって、死なんてそんなものだろう。

そんな人間が「メメント・モリ」と言ったところで、なんだか背伸びしているような滑稽さがある。

僕が武術家や護身術の先生方が使う「実戦」という言葉をあまり使わないのも、同じ理由だ。競技格闘技の選手が試合を指して「実戦」というならともかく、それ以外の意味で「実戦」と称してなんだかボカスカやるのは、そもそも真実味がない。

ここは僕がなるべく高い純度でシステマを後世に伝えたい、と思う理由とつながっている。ミカエルやヴラディミアといったマスター達は、戦場でかなり強烈に「死」を間近に感じた。自らの命の危険という意味もあるし、仕事だからとやむをえず殺めたことも、戦友が命を落としたこともあっただろう。

そういう話は本人たちにとって今なお生々しい凄惨な記憶なので、好奇心で聞き出そうという気にはならない。ただごくたまにその影がちらつくことがあるし、ぽろりと当時の話を聞くとあまりの凄まじさに言葉がでなくなる。これを読んで「どんな話なんですか?」と目をキラキラさせて聞いてくる人には絶対に話したくないくらい重苦しい。一端を聞いた僕でさえそのくらいなのだから、本人たちが抱える記憶の重みは計り知れない。

そういう異常な環境を生還して持ち帰った知恵が、「システマ」という、呼吸やリラックスを重視するきわめて平和的で人間的なシステムであった、というところがとてつもなく貴重だと思う。

決して繰り返してはならないような死の山から掘り出された知恵。それを死の山を経ずして受け取ることができるかどうか。それは愚かな歴史の繰り返しを止めることができるかどうか、という試みとなる。もし戦争の悲惨さを戦争を体験することでしか学べないなら、戦争は延々と繰り返すことになる。でも戦争を体験せずに学ぶことができるなら、この連鎖を断ち切ることができる。

その仕事は例えば僕のような、メメント・モリのできない、死と切り離された平和ボケした現代人にしかできない仕事なんじゃないかと思う。どうあがいたところで僕たちは徹底的に平和ボケしている。歴史的に稀なレベルの平和ボケ。そんな僕たちがどうやって死を思い、愚かな連鎖を食い止める一助となるか。それがシステマという試みなのだろう。

そういえば一時、より内面的に静かな方向へ向かうミカエルの方針に対し、「今のシステマは実戦的ではない」と否定して出ていってしまった一団がいた。その筆頭となった人物は経歴的に、ミカエルやヴラッドと違って「死」を間近に感じる場にはいなかった。それよりも自らが生まれ育った郊外都市の裏道でのケンカの方がリアルな「実戦」だったようだ。一緒になって抜けた人々は、その考え方に共感したのだ。

いわば平和ボケした人々が暴力的な方向に走り、本当の凄惨な場を体験した人たちが平和的な方向に向かっていく。人にはそういう傾向があるようだ。

だから平和ボケするほど、僕たちはおそらく暴力的になる。ネットの炎上とか街なかで突然怒鳴り出すおじさんとか、そういうのもその傾向に含まれるのだろう。

だから平和ボケしていながら、平和的でいるにはある種の努力が必要だ。

僕がそれがシステマなんじゃないかと思っているのだけれどもね。

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