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トロント本部mp4「SOUL & SPIRIT」日本語テキスト版vol.2

聖三位一体ロシア正教会からトロント本部にウラジミール神父をお招きしての一問一答。

Vol.2では次の質問が収められています。

4.How to view the situation when someone takes their own life?
5.How to keep the faith if your prayers are not answered?

オリジナルmp4

Vol.1

自殺について

ヴァレリー:次の質問です。「自ら命を絶つ人がいる、ということをどのように考えていますか?」

ウラジミール神父:ある神学者が言いました。誰かの命を断つことはとても罪深いことだと。自分の命を絶つこともそうです。自ら命を絶つ人のためにも祈るべきでしょうか? ある神学者は「もちろんです」と答えました。故人がキリスト教徒であろうと無かろうと、祈りは必要です。友人や親族の祈りが有れば、故人の魂はより良い方向へと導かれます。それがキリスト教における信仰です。だからこそ我々は、故人を偲びながら、ロウソクに火を灯します。故人を想いながら、その罪が赦されるよう主に訴えます。

キリスト教は自殺者の葬儀や埋葬を認めていません。それ自体は事実ですが、実際には司祭が状況を踏まえて判断します。そこへ追い込まれるような悩みが有ったからこそ、自殺という手段をとったのだと思います。魂や精神に深刻な悩みを抱えていたのでしょう。自殺という行為が、家族や友人にどれほど深刻な影響を与えてしまうか、当人も分かっていたでしょう。時にそれは自殺を踏みとどまる抑止力にもなります。しかし自殺者は往々にして、深刻な心の悩みを抱えています。そのような人を弔いたいという事であれば、弔いは九分九厘許されるでしょう。

ある著名な神学者はこのように考えました。「なぜキリスト教は、自殺者の弔いや埋葬を認めないのでしょう?  なぜなら古の人々にとっての抑止力だったからです。」私も同じ意見です。自殺したらキリスト教徒として弔うことが許されない。それは自殺に対する大きな抑止力でした。とても興味深い考え方です。

自ら命を絶つような人のために祈るべきでしょうか? もちろんそうです。故人に必要なのは、大いなる愛と祈りです。例えば、悩みを抱えた子どもがいます。もちろん両親は、子どもを救うために、あらゆるエネルギーを注ぐのだと思います。ただし親にも日常生活が有るので、子どもに悩みが無ければ、親の意識が多少それることがあるでしょう。けれど子どもが悩みを抱えていれば、親は常に子どもに目を向けていなければなりません。子どもが、大いなる祈りや愛、そして手助けを欲しているのは疑いようもありません。もちろん、遺族へのサポートも必要です。

以上が自殺者に対する私たちの見解です。この話は昨今様々な場所で見られます。この間も電話が有りました。ほんの12、3歳の女性から「手首を切りたい」という相談が有りました。彼女は、敬虔で恵まれた家庭に生まれ、愛されてました。悲しいことにこういった問題は、現代においては今まで以上に深刻です。

祈りの意味

ヴァレリー:どれだけ祈っても答えはありません。どうすれば信仰を保てるのでしょうか?

ウラジミール神父:祈りには多大な努力と苦難が伴います。私たちは祈りを通じて主と繋がります。言うほど容易ではありません。何かを願うこと、それは祈りではありません。「助けてください」「良い成績を取りたいです」「良いキャリアを積みたいです」「病気を治してください」これらは祈りではありません。ただのお願いです。例え祈りと呼ぼうとも、ただのお願いに過ぎません。大いなる実りをもたらすような、真の祈りとは何でしょうか?
まずは集中です。祈りに集中することで、本質、つまり許しへと向かいます。主に向かって、己の罪が許されるよう祈るということです。これが祈りの一つの側面です。

あなたが祈るとき、どれほどの熱意を込められていますか? 聖書にはこう書かれています。「門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。」 あなたはどれだけ熱心に門をたたいていますか? どれだけ強く求めていますか? 真摯でしょうか? 心を込めていますか? あなたの全てが祈りに包まれていますか? 包まれていれば、あなたは己の罪への許しを求めているでしょう。世俗的な情熱や罪を捨てられれば、祈りを通じて主と繋がります。これは往々にして、教会で成し遂げられます。なぜならば教会とは、あらゆる地上の不安を捨てて、祈りに集中できる場所だからです。

より良い祈りに辿り着くために、他に何をすればよいのでしょう? 断食です。イエス・キリストが述べたように、悪霊は祈りと断食によって祓われます。断食はとても大切です。だからこそ私たちは、この四旬節の時期、集中して祈りを捧げます。我々は腹という暴君から解放されます。腹を満たすのでもなく、腹に操られるのでもありません。

そして、言うまでもなく、他者への愛と思いやりです。強い祈りには、こういった要素が伴っています。このような祈りを目指せば、主も喜び、答えがあるでしょう。私たちが目指すべきは、このような祈りです。

Vol.3へ続く

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