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トロント本部mp4「SOUL & SPIRIT」日本語テキスト版vol.1

聖三位一体ロシア正教会からトロント本部にウラジミール神父をお招きしての一問一答。

Vol.1では次の3つの問いが収められています。

1.If God exists why is there so much suffering in the world?
2.How do we justify self-defense if we should ‘turn the other cheek’?
3.What is the best balance between grief and moving on with your life when someone close passes away?

オリジナルのmp4はこちらです。

神が存在するなら、なぜ世界は苦痛で溢れているのか?

ヴァレリー:それでは始めましょう。現在、全世界がとても厳しい状況に置かれています。人々は、今まで以上にスピリチュアルな事柄に興味を抱き、答えや安らぎを見出すようになっています。そういった人々にとって、私たちの会話が役立つことを願っています。では最初の質問です。「もし神が存在するなら、どうして世界は苦痛で溢れているのでしょうか?」

ウラジミール神父:始まりの日より、世界には痛みや苦しみがありました。旧約聖書でアダムとイヴが罪を犯した結果、世界には死や悲しみ、労働、苦痛などが起こりました。悲しみは、常に世界と共にありました。世界は悲しみと問題に満ちています。旧約聖書のユダヤ人は長い間エジプトの隷属下にありました。人々がとても罪深くなった時には、主の計画により洪水が起こりました。何百万人もの人々が亡くなったでしょう。2度の世界大戦など、20世紀は常に苦痛と共にありました。世界は常に苦痛で満ちていました。特に新しいことではありません。こうした苦痛の下で神学者たちは考えました。全ては主の摂理の下にあると。主がこういった事柄を許すのは、癒しを与えるためです。大きな苦痛を経ることで、人は自らの生き方を変えます。罪深い生き方を捨てて、主を尊ぶキリスト教徒のような生き方へ。このように主は癒しを与えるのです。

セルフディフェンスを正当化できるのか?

ヴァレリー:2つ目の質問です。特にセルフディフェンスを学ぶ人々には関わり深い質問です。「どうすればセルフディフェンスを正当化できますか? 聖書は『頬を打たれたら反対の頬も向けろ』と勧めています。

ウラジミール神父:とても答えやすい質問です。イエス・キリストの教えには「右の頬を打たれたら、反対の頬も向けなさい」とあります。どういう意味でしょう? 相手の考え方を変えてしまう、ということです。頬を打たれたら、反対の頬を見せて「こちら側にはやらないのですか?」と言います。こういう仕草を見せたり、こういう言葉を投げかけることで、相手の考え方を変えてしまいます。すると相手は、それ以上の事は行いません。何かを盗まれたら、盗んだ相手に「あら、これも持って行かないのかい?」と声を掛けることができます。すると相手は、自分がしたことを恥じ入るでしょう。機転の利いた一言を、相手が恥じ入るような一言を投げかけましょう。それで相手は攻撃を取りやめるでしょう。こういったことです。

もちろん、襲われた時に身を守ったとしても何も問題はありません。攻撃や暗殺から身を守るのは、いたって普通のことです。事柄とその意味を理解しなければいけません。正教会やキリスト教の聖人の教えを学ぶことで、福音書の理解が深まります。聖人たちの教えを読んで、彼等がどのように解説しているか学ぶことは非常に重要です。残念ですが、聖書のみを尊ぶ人は少なからずいます。大家として言います。私にとって聖人の教えとは、人間が生み出した思想であり、哲学であり、福音書の解釈です。違いますね。聖人の教えや聖書には、明確な意味があります。正しく理解するには、聖人たちの教えを学ばなければなりません。彼等はその気高さを以て自ら啓蒙したから、(福音書の)意味を正しく理解していました。福音書、あるいは新約聖書も、2000年前の書籍です。2000年前の哲学や考え方、加えてユダヤ人の文化や伝統があります。例え我々がそれを理解せずとも、聖人たちは全て説明しています。正しい意味を。

愛する人を喪った悲しみと向き合うには?

ヴァレリー:質問がありました。どのようにすれば、愛する人を喪った悲しみと向き合って人生を進んでいけるでしょうか

ウラジミール神父:人生は悲哀に満ちています。全ては心の在りようです。誰かが喪われることで、肉親や友人たちは、非常に大きな苦痛や悲しみに包まれます。これについて、忘れられない話が有ります。聖歌隊の女性が、母親をウクライナに埋葬した話です。諸々が終わって帰ってきたとき彼女は言いました。「キリスト教徒にとって、悲しみと向き合うことは難しくありません。死後の世界を信じているからです」と。苦痛や悲しみを受け入れて、前へ進むことができます。かつての私のような無神論者にとって、死は終わりです。このことは死に向き合う上で最も辛く悲しい事であるため、打ちのめされてしまいます。けれどキリスト教徒は違います。苦しみや悲しみの渦中にあっても、打ちのめされることはありません。どのように受け入れるか、どのやって悲しみに向かい合い、折り合いを付けるか。それは本人の心の在りよう次第です。もちろん、喪う悲しみには痛みを伴います。死は悲哀に満ち溢れています。しかし主の助けがあれば、この十字架を背負ったまま前へ進むことができます、絶対に。誰もが死と向き合います。特に私の年だと、両親は既に亡くなっています。私たちには懐かしい思い出があり、愛に溢れており、死後の世界を信じています。人生は進んでいます。人生は常に前へと進んでいきます。

Vol.2へ続く

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