仕事における"成長"という言葉をやめたい
先日Xで最近考えていたことにハマるようなポストがあって勝手になぐさめられました。
要約すると、仕事における「成長」とは組織戦略上の人材育成意図であって、「人間的な成長」ではなく「仕事の上達」を意味するだけである、「仕事の上達」と「人間的な成長」には一切の相関はないと言える、といったポストでした。「仕事の上達」がいくら進んでもけっして人間が豊かになるわけではない。それはそのとおりだと思う。
なるほどなと思ったと同時に、ひるがえってじぶんのことを考え、同僚に「(人間的な)成長」などとえらそうなことを問うてないだろうかと恥ずかしくもなったりしました。
成長幻想に自分がとらわれていたのだとしたら、最近とくにすり減っていたのも、仕事や労働にたいして期待があったからかもしれない、と反省もしています。物事や他人への期待があるから、人は結果に落胆し怒り気持ちをすり減らすものです。
「仕事や労働にたいして期待があったのかもしれない」、ここがけっこう重要で、それをふまえてこの10年を思い返していました。
わたし自身32歳までは、ガスが止まろうが電気が止まろうが家賃を滞納しようが税金未納で差し押さえされようが、好きなことは演劇であり役者でした。一方で労働は好きなことするための手段でしかなかったのです。とにかく一瞬の舞台のために費やす時間が当時の自分にとっては愛おしく、ひとつの作品をひとつの座組が短期間で作り上げる、その狂騒的な一瞬のきらめきが好きでした。人格的な成長があったかはわかりませんが、いろんな楽しいことといろんな失敗を繰り返し、今より毎日は人間味に溢れていました。まあ、思い出補正もね、もちろんあるでしょうけど。
役者をやめ、会社員としてだけ労働しはじめるとそんなことはないわけで、どこかでそういった人間らしいきらめいた生の活力や弾けるような一瞬の躍動のようなものを、仕事・労働に勝手に期待し続けていたのかなとも思います。プログラミングが、つくりたいものがつくれるといったプリミティブな喜びを得やすいということもあるでしょうし、開発プロジェクトのゴールが狂騒的な一瞬のきらめきと思えなくもない瞬間もあったでしょう。
ただ思い返せば、仕事・労働はやはり生活のためでしかないわけで、生活に人間らしさを与えたり人生に深い滋味をくわえたりするものではないわけです。
いまさらかよとも言えますが、役者をやめて10年経ってようやく真っ当な労働者人生を歩み始めることも、新しい気持ちで労働をとらえなおすということも、いまの自分には重要な発見です。
そして、酒。何よりお酒です。すべてを忘れさせてくれる、最高の友。これだけは昔から変わりません。酒だけが頼りだ。