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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

ちひろさんを観た。

 映画「ちひろさん」を観た感想。
 まず最初に、私はちひろさんという漫画が好きなこと、原作改変が苦手なこと、漫画の内容のまま実写化されるのだと期待して観たということ、これらを前提に感想を書いています。
 それを踏まえて読んでいただければと思います。
 また、映画と原作のネタバレを含みますのでご注意ください。

これは"ちひろさん"ではないなと思った。

 有村架純というキャスティングの時点で原作再現からは遠いのではないかと感じていた。なんとなくちひろさんは30代半ばくらいだと思っていたので若すぎるなと。結果、有村架純の演技は良かったし、「あ、これ原作をよく読んでるな」と思った。でもやっぱりちょっと違うよな。

 それから映画全体のストーリーを見たとき、映画が最終的に伝えたいことと、漫画が伝えたいことが異なるという点。
 あの映画は、「ちひろさんという漫画」のキャラクターを使ったオリジナルストーリーのように見える。あるいは、監督が使いたいと思ったちひろさんの良いシーンを詰め込んだだけの画集のような。

違和感と、回収しきれなかった伏線

 まずオカジが変態だった!オカジの盗撮はああいうねちっこいストーカーみたいなものじゃないんだよな…。なんとなく惹かれて、友達との会話のネタになればいいやくらいのものだったはず。どういう子に映したかったの…?と思う。
 ただ、オカジの盗撮シーンから始まり、そこにホームレス師匠とオカジの家庭の事情を同時にねじ込んでくるのは素晴らしかった。同時に他視点を複数進行するのってめちゃくちゃ大変だと思う。

 マコトにいきなりキレるシーンが意味が分からなかった。原作では、「最近この辺の自転車をパンクさせられてたり公園にイタズラされてて怖いのよ」というオバサマたちの世間話から始まる。それを聞いたちひろさんは面白いじゃん、ちょっと犯人探してみるか、ということで噂の公園で本を読み始める。そこでおもちゃの毒虫でイタズラを仕掛けるマコトが登場して、映画の通りちひろさんの腕を刺してしまうわけだが…。
 映画では、ただ蛇のおもちゃで脅かしただけの可愛い子どもの遊びにガチギレする沸点のわからない人、になってしまっていないか?原作では「そうか、あんたが近頃イタズラをしていた悪童か」と大人の威厳を以ってして舐めんなよと叱る大切なシーン。
 時間の問題だよね、カットせざるを得ない、でもマコトとちひろさんを出合わせるために入れなければならないシーン。わかってはいるけど「ちひろさん」という像が崩れるような、ひっかかるところだった。

 それから谷口!!ここがかなり大きな改変だった。正直良くなかった。
 ラーメン屋で怒鳴りあいをしているシーンは原作ではモブキャラで、そんなに重要な場面ではなかった。谷口とちひろさんの出会いは、まずマコトと谷口が出会って仲良くなるところからだった。その後はちひろさんのストーリーの中でたびたび出てくる主要キャラになっている。
 それがこの映画ではどうだろう、「ちひろさんの説明」に使われただけの一過性のキャラクターだった。
 それから、すごくショックだったのは「ちひろさん、本気で死のうと思ったことあります?」を谷口に言わせたところ。このセリフは原作では駅のホームで自殺しようとしてちひろさんが止めた男性のセリフ。谷口はこのセリフには関係ないし、そんなこと口にするような男ではない。
 わかるよ、ちひろさんが希死念慮を知っているという伏線を忍ばせたいのは分かるけど…。せめてその後の「いや、なんでもないです」というしょうもないセリフはやめてほしかった。

 最後、ちひろさんが一人抜けて帰っているところ、タエさんが電話してくるシーン。なんで帰ってしまったんだろうか…?
 ちひろさんはそもそも、みんなでお食事をしているところ、黙って帰るような人ではない。それは31話の「オールスター感謝祭」を読めばわかることだけど、帰りたいと思ってもちゃんと周りに配慮できる人なんだよな。
 タエさんとの会話を描きたかったのか、意図がわからないけど、このへんのシーンもセリフも全て原作にはないもの。「あなたならどこに居たって孤独を手放さずにいられるわ」というセリフもどういう意味なんだろう。
 ちひろさんの飼う孤独は、ちひろさんにしか分からないものだ、というのが漫画で言いたいことなんだと思っている。映画ではまるで、タエさんがちひろさんの孤独を知っているかのように、見えているかのような言い方である。…違くない?

ちひろさんが消えた理由

 原作ではなんとなく汲み取れる。
 ちひろさんは、コップ7分目くらいがちょうどいい人なんだろうなと感じる。満水でもだめ、空っぽでもダメ。少し減ってしまったら、お気に入りの廃墟で人間を脱いで充電する。水以外のものが入ってきてしまったら、慌てずジタバタせず、それに沈んでみる。
 では溢れてしまったら。溢れてしまった原因から、離れていくんだろうなと。私はそういうふうに解釈している。

 62話の「残響」で出てきた“タエさんの大事な話”が、ちひろさんを溢れさせた原因なんじゃないかなと思っている。(ここは解釈が難しくて合っているかわかりません。自己解釈悪しからず)
 "大事な話"を話す時、表情でわかるけど、タエさんは悪気は何一つなかった。無理強いはしなかったし。それからちひろさんは、確かな幸せを感じていた。表情でわかる。だけど「タエちゃんですら孤独を飼うことの真理は分からないんだ」という虚しさが交錯して、どっとコップを溢れてしまったんじゃないかな。

 では映画の場合、姿を消した理由は何だったんだろう。原作とは真逆で「孤独を手放さずにいることの肯定を、タエちゃんがしてくれた」という幸せを感じたんじゃないかな。映画のタエさんは、ちひろさんに踏み込み過ぎだと思ったけど、こういう流れにしたかったのかなと思う。それがちひろとしての自分ではなく、綾としての自分が救われた瞬間で、ああもう大丈夫だ という気持ちでちひろさんは姿を消したのかなと思う。

 上記の通り、だから私は『映画が最終的に伝えたいことと、漫画が伝えたいことが異なる』『「ちひろさんという漫画」のキャラクターを使ったオリジナルストーリーのよう』だと捉えた。

ちひろさんの失踪先

 映画では牧場、原作ではインドカレー屋さんにいるシーン。
 多分どこで何をしているかはあまり重要ではなく、ここのセリフが重要なんだと思う。
 映画では牧場主らしき男性が「ここに来る前はなに"やってた"の?」と聞く。ちひろさんは「ただのお弁当屋さんです」と答える。質問が「やってた」という過去形なのが残念だった。ああ、ちひろさんにとってお弁当屋さんだったのは過去形なのか、と。
 原作ではカレー屋さんの店員にマッサージをしてあげるシーンから始まり、あんまり上手なので「ちひろさんはそういう仕事してる人なの?」と聞かれる。ちひろさんは「ただのお弁当屋さんです」と答える。あくまで「仕事してる人」であって、お弁当屋さんであることが現在進行形なのだ。
 それでいて、カレー屋には「ちひろ」と呼ばせていて、ちひろさんは風俗嬢からお弁当屋さんになったという変遷を表現している。
 ここは本当に細かいところで気にするところじゃないのかもしれないけど、原作のキラキラしたちひろさんを見ると、ちょっと雰囲気が違うよなあと思ってしまった。


映画のよかったところ

 かなり改編とオリジナルのセリフが多い映画だったが、秀逸だなあ!と思うシーンも多々あった。

 オカジの「ご飯の味がしない」という話がよかった。原作ではご飯の味がしないと言ったのはちひろさんだったが、ここでオカジに言わせて、あとでマコトの家でマコトの母の焼きそばを食べるシーンが素晴らしかった。(マコトの家で焼きそばを食べるシーンも原作にはありません)
 セリフで何か語られることはなかったけど、これはご飯の味がしない の伏線回収で、あの焼きそばを食べて「“お母さんの味”がする」と泣いているんだよね。ここの表現がすごかった。

 「違う星の人、同じ星の人」という話は、原作ではかなりサラッと終わっていて、タエさんにその話をするシーンはない。だけど作品一連を通して宇宙人の話を使っていたのは秀逸だった。

 それから最高だったのは、ちひろさんが幼いころにのり巻きを作って食べた話。風俗嬢のちひろとの出会いをそこで描くのが素敵だった。原作はのり巻きの話も、ちひろとの出会いも別の話として描かれていて、ちひろがのり巻きを食べるシーンはないので改編だが、うまいなあと思った。

ちひろさんが大好き

 私は、淡々としていて倫理的で、それでいて感情的になれる原作のちひろさんが好き。映画のちひろさんはなんだか、自分の感情を殺しているように見えた。
 私の好きなちひろさんはよく大笑いするし、怒るし、怒鳴るし、よく泣く。

 ちひろさんの、自分がそうしたいと思ったことや人に対しては、自分が汚れることも削れることも厭わないのが本当に人としてきれいだなと思う。そしてその削れたところを、誰の何も削らない、あるいはむしろそれが相手を温めるようなやり方で埋めていく生き方の優しさと不器用さが大好きです。



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