政治を考える上で人間の本質を考えるべき。
オリンピックやワクチン事業の中抜き等の汚職を見ていると吐き気がしてくる。しかしながらそれが人間の性なのかなとも思ってしまう。自己のために利益を最大化しようとする。これは制度の違いこそあれど、内実は封建制や社会主義、現在の資本主義で変わりはない。
この歴史的事実を前にして、よく人は社会は救いようがないと絶望するし、僕も悲観することが多い。しかしながらこのような理想は人間は無謬であるという妄想というか願望の上に成り立っているように思える。当然人間は誤ちを起こすのであり、無謬なんてものはあり得るはずもなく、次から次へと問題が生まれてくる(それも人間自身の手によって!)という必然性を無視するのであれば、食べても食べてもまだお腹が空くという具合に底なし沼にはまっている感覚に陥り、絶望してしまうし、必然性を無視すれば効果的な改善策を立てることは難しくなるだろう。まずは人間は誤ちを起こすものであるという前提を理解することが、より効果的な改善策や精神的安定につながると考える。例えばドイツが戦後にやったことがまさにそれであり、再びナチスを台頭させないために、過去の克服政策を行ったが、それだけではなくボン基本法により制度面でも再びファシズムが台頭することを防止した。これこそ人間の可謬性を意識したものである。
では我々は人間が誤ちを起こしうるという事実を受け入れたとして、どのような施策を取るべきなのだろうか?僕は絶対に誤ちを起こし得ないことを目指して制度を作るのではなく、誤ちのブレを小さくすることを目指すべきだと考える。そもそも現代は、誤ちの定義すらもまちまちなため、このやり方が一番妥当なように思える。(ただし基本的人権や社会的正義に関しては妥協してはならないし、立案は最高を目指さなければいけない)
しかしながら、ウクライナ侵攻や近年の日本の民主主義の後退を見ていると、再びブレが拡大しているようにも思えて、これこそまさに退化のように思えて辛くなってしまう。ただ人間は停滞、時には後退を経ながらも前進してきたものだと思うから、大局的には人間はなんだかんだ、倫理的文化的に進歩しているし、し続けるだろう(進歩史観や経済的な発展とは無縁)と考えるのが良いのかなとも思える。
この手の悲観主義は、人間がなにか高次的な存在だと誤解して勝手に絶望し、思考から逃避してるように思える。さらに気分が悪いときたらいいことなんて何もない。現実を直視するのが大事。
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