レモンをしぼり塩を振る 第1章 からまわりとおまわり
子どもに無限の可能性がないことを教えてあげることが大人の役割だ。ずっとそう考えている。スポーツ選手やテレビに出ている芸能人たちは、公務員になる可能性を切り捨てている。はみ出しものしかあそこにはいないじゃないか。世間で羨ましがれている人は必ずしもすべての側面を褒められたものではないという視点だって必要だろう。かくいう僕も、世間一般から見たら「勝ち組」に見えるのかもしれない。
僕は歯医者だ。開業医である。
朝9時から夜7時まで毎日患者の口の中を覗いている。虫歯、差し歯、親不知、ホワイトニング、金歯銀歯に定期健診…。同じような作業をしているのだけれど、人それぞれ口の中の特徴は違うから、それぞれの患者さんに合わせて治療していく必要がある。多くの患者を診ているうちに、だんだんどういう歯並びの人がお金持ちなのかということがだいたいわかってきた。もちろん、カルテを見ながら診断するわけで、個人情報を誰かに漏らすようなことはしない。個人情報を漏らすわけではないけれど、やはり診察している人の情報はそれなりに頭に入ってくる。誰かの口の中を見て、これが商社マンの歯並びか、と思わないと言う方が嘘だろう。
開業医というのは、自分が医者であることと同時に、経営者としての視点も持たなければならない。何人のナースを雇えるのかという問題もあるし、患者が座る台を用意する費用、そしてそれがペイするのに必要な費用、管理費、維持費、水道代、などなど。ありとあらゆる問題に具体的な解決が求められている。自分以外の歯科医だって当然必要だ。
僕のやっている病院にいる人達はだいたいが、同じ大学の後輩になる。これは、誰がどこで開業したのかということを大学が把握していて、そこに卒業生を送り出すことができるためだ。ところが、大学の歯学部というのは、人気がなくて、合格さえすれば、そして国家試験に合格さえすれば、食いっぱぐれることはないのだ。ナースと同様に、現在歯科医は人材不足になっているわけである。そうは言っても、どこにでも行けるわけでもなくて、地方の歯科医にはなりたがらない若者が多い。都会の便利さに負けて、首都圏で就職先を探しているのだろう。これは少し問題かなと感じている。歯科医だって医者なのだから、世間で言われているとおり、給料は悪くない。むしろ、他の同世代の人たちと比べたら圧倒的に稼げているだろう。だから田舎へ行けば行くほど、相対的にお金持ち感は首都圏とりわけ都内よりは増すわけだ。それなのに、首都圏に住みたがるのは、若者にとって都会は刺激的だし、楽しいことがたくさんあるからだろう。その気持ちはわからなくはない。ここまで言っておいていうのもアレだが、当病院は比較的田舎に分類される地域に位置している。よって、人材が必要だとなっても、大学はこっちに人をあまりまわせないらしい。マクロでみたら需要はあるはずなのに、各個人レベルで見れば、行きたいところにポストがない、という点で不景気といえるのだろうか。同様のことが、いくつかの業界では起きているのかもしれない。
縄張り意識というものが医者にはあるらしい。僕はそれを特に意識したこともないけれど、年配の先生たちはそういうことばかりを気にしている。このあたりはあの先生の担当、向こうの地域はこの先生の担当、などいろいろと勝手に決めている先生がいることは、こちらで開業してから知った。そんなことも知らずよく開業できたなと思うかもしれないけれど、これは僕の奥さんの実家が譲渡してくれた土地だから、一切お金をかけることなく、開業のための土地が手に入ったのだ。おかげで、僕は31歳で開業することができた。悪いことに、そこの近くには地元ではピカイチの歯医者さんがあったらしい。地元密着型のお医者さんの縄張りの中に、僕が急に開業したものだから、その近辺のおじいちゃん先生方が何を考えているのかと言ってきたのだ。都内の大学病院で勤務した後にこっちに来たから、都会の人間は何を考えているのかわからん、人情がない、などと裏で文句を言われていたようだ。僕の奥さんが町内会のおばさまと話した時に、そんなことを聞いたと僕に漏らしたことがあった。僕は放っておけばいい、気にしなくていい、と言った。奥さんのお父さんとお母さんはそういうことを気にしない人だから僕に土地を譲ってくれたのだろうと考えていた。いわばチャンスを与えてくれたのだと。娘がより幸せになるためにはお金は会って困ることはない。だから開業すればそれなりに儲かるだろうから、少なくともお金に困る生活にはならないだろうという愛情も含まれていると理解していた。しかし、そういうわけではなかったのだ。僕の奥さんからそんな話を聞いた後に、お義父さんとお義母さんは悪いことをしたなと詫びを入れに来たのだ。そんなことないですよ、開業する機会を与えてくださってとても嬉しく思っていますと丁寧に返したけれど、田舎特有のというか、年配の方によく見られるというか、そういう他人の目を気にして、周囲とうまくやっていこうという志向が強いことに僕はとても驚いた。奥さんの両親にそんなことを言われては、僕も頑張るしかないと思って、そこからは町1番と評判の歯医者さんの「縄張り」に立ち向かっていくことを決めた。
そうは言っても僕にできることは、来てくれるお客さん(という表現は不適切かもしれない、患者さんに訂正しておこう)を待ち、可能なかぎり最高のパフォーマンスで施術することだろう。簡単な治療に何回も来てもらってお金をふんだくるような人もいるけれど、そんなことをしていても患者さんが煩わしく思うだけだ。実際、僕が子どものときにはそんな歯医者さんにかかってしまう、行くのが億劫で仕方なかった。母親に叱られながらなんとか行っても、また次来てくださいという言葉を聞くたびに落ち込んでいた。そんなこともあって、できるだけ早めに患者さんを治療から解放してあげるべきだというのは僕の信条のひとつとなっている。
来てくれる患者さんに誠意を尽くすのが医者なのだけれど、患者さんが来てくれなくてはこちらも何もできない。
開業してすぐの頃は、ほとんど患者さんは来なかった。最初の時期は、このあたりの人達は歯の健康に気を使っているんだねと笑って奥さんと話していた。しかし開業したての診察数が明らかに平均よりも下回っているとわかったときには、ちょっと冷や汗をかいた。新しい診療所に足を運ぶのは、お年寄りには挑戦だったのだ。新しいところに挑戦して失敗するリスクをとるくらいならば、今の”そこそこ”の状態を保っていきたいというのが年をとるということなのかもしれない。そもそも、人間は変化を嫌う生き物だ。変化を積極的に取り入れようとする姿勢が見られるのが若者の特徴とすれば、老年の特徴は新しいものを排除して昔のよかったものにすがろうとする姿勢だろう。未来に向かって変化を面白がれるのか、もしくは変化を嫌って過去によさを見出そうとするのか。向いている方向が違うのだ。ただし変化にも、良い方へ変わるものと悪い方へ変わるものとの2種類があることを心にとめておきたい。変化することすなわち成長と直結する部分もあれば、そうでない部分もあるだろう。実際、青年と老年の違いは明らかであるけれど、青年は須く老年になるのである。常に自分を見直す必要があり、その都度、自分のなりたい理想を目指して変化していくことが大切だ。
新参者がすぐに軌道にのせることなんてできない。そう自分に言い聞かせて次の策を考えることにした。今月通院してきた人たちは子どもが多かった。母親が嫌がる子どもを連れて来て、虫歯の治療をしたというケースが半分くらいだった。虫歯の治療ごときで何回も来てもらう必要なんてないから、即日で完治だ。場合によってはもう一回来てもらうことだってあるかもしれないけれど、たかが知れている。もっと新しい客層を考えらなればならない。土地柄、やはり年配層が問題か…。そういえば、町内会の回覧板が来ていたなと思い出した。あそこにはたしか、近々、公民館かどこかでお年寄りの懇親会が開かれる、というようなことが書いてあった気がする。当然、僕はそんなところには行く気なんてさらさらない。しかし、時間を持て余している人たちであれば、特に年配層の人たちであれば、グループになって仲良くワイワイ楽しくお話することに楽しさを見出しているのかもしれないと感じた。公民館で集まるくらいであれば、参加費はたかがしれているだろう。ならば、と無料で地元住民に声をかけて、定期検診してみようかという気持になった。最初はボランティアとして、ここで新しく歯医者をはじめた奥野です、といえばいい。無料で検診を行えば、若い人は来なくても年寄りは来るだろう。おじいちゃんおばあちゃんに連れられて、ついでに孫も来るかもしれない。最悪誰も来なくても、病院の休診日にそれを開催すれば、つまらない暇つぶしだったと思えばいい。自分の診療所の休日に地元住民を集めて無料の歯科検診をやってみようと考えたのだ。一度無料で診断すると、それが当たり前だと思ってしまうという危機感もあった。インターネットと同じだ。無料であることが当たり前になるとお金を出すことに抵抗が生まれてしまうけれど、お金を出すのに十分なコンテンツをこちらが提供し続ければいい。まずは失敗してもいいから、やってみようと考えたのだ。
奥さんに相談すると、それもいいんじゃないと言ってくれた。ああでもないこうでもないと悩んでいるのが1番気持ちの悪い状態であり、具体的にアクションを起こしているうちは、それを実行することを目指せばいいだけだから、気持ちがいい。
歩き続けることは簡単なのである。歩き始め続けることが難しく、もっと言えば、どこに向かって歩くのかを決めるのが1番大変で、労力が必要で、敷居が高い。そこを乗り越えれば、あとは失敗か成功か、やってみればいいだけなのである。
奥さん力も借りて、町内に宣伝を出すこともできた。ちらしを配るというよりは、やはり回覧板や、市内の広報におしらせしたりするのがこの地域では一般的な宣伝の打ち出し方であるみたいだった。お義父さんとお義母さんも当日は来てくれるというのだからありがたい。誰か誘ってみようかしら、だなんてお義母さんも言ってくれた。お義母さんのお友達は無理かもしれないけれど、お義母さんならいつでも無料で診断するのにな、と思ったけれど言わなかった。
無料定期診断の日になると、まばらながらも人が集まっていた。宣伝効果はほとんどなかったかもしれないけれど、そこそこ人が集まってきた。小学生になる前の子どもも何人かいたけれど、年配の人が多かった。50代よりも上の方々だろう。通常の診療所であれば、僕の他にも男の医師がいるのだけれど、それほど来ないだろうと思って彼には出勤をお願いしなかった。サポートをお願いしてもよかったかなとも頭をよぎったけれど、今後につながるかどうかもわからない活動に巻き込んで、無駄に嫌な思いをさせるのはよくないかなとかばった形になってしまったのだ。しかし、すべてを自分で背負う必要などないのだ。実際、当日はナースの何人かは気をきかせて出勤してくれている人もいた(彼女たち曰く、家が近いので来てみただけですとのことだったが、休日を返上して働いてくれているわけだ)し、奥さんに受付をお願いしてしまうことになってしまった。そもそも、仕事というのは嫌なことをすることなのだ。誰もはやりたくないようなことをやってお金をもらうというのが根底にはあるはずだ。だから、自分がすべて嫌なことを請け負って、自分の下で働いている人たちにラクをしてやりたいというのはあまりにも綺麗事なのだ。頑張ってくれている彼女たちを報いるためには、経営者として給料を上げるというのが1番手っ取り早く、そして正確にこちらの評価が伝わる。余計に、人の入りが少ない病院の存在が鬱陶しくなる瞬間だ。やりたくないことをやる、そして、さらに自分が付加価値を加える事ができれば、それは働くことが楽しくなったりしていくのだろう。最初のハードルはできるだけ低いほうがいいのかもしれない、つまり、楽しいと感じやすいほうがいいのかもしれないけれど、遅かれ早かれだろう。診療を終えたら、気持ちばかりの謝礼を渡そう、と思った。自分のやりたいことや憧れが入り口で就職するのは危険だと思うけれど、それがすべて悪いとも言えないし、いいともいえない。やりたいことや好きなことを仕事にするのはダメなのですかとなると、それは人による、というありきたりで何の答えにもならない言葉しかその問いには返ってこないだろう。しかし好きなことを仕事にするとしても、好きなことだけでお金を稼いで暮らしていくことはかなり難しいだろう。スポーツ選手だって活躍するためには、プロになってからもちゃんと練習をする必要がある。テレビに出るタレントになったって、常に人の目にさらされるわけだから、有名になってしまったら、もう有名じゃなかったころのようにレストランで食事をすることは難しくなるだろう。芸の道により厳しく励む必要もあるだろう。ミュージシャンになったって、自分がしたくなくても何らかのプロモーション活動に参加させられることだろう。やりたいことをするためには、我慢しなければいけないことだってある。大切なのは、やりたいことはなにか、ということだろう。
あなたのやりたいことは、一体なんだろうか?
もちろん、今それをやっているはずだけれど、そんな短期的な取り組みのことをいっているのではない。もっと長期的に見て、いわば、生きがいというようなものは一体ありますか、ということだ。あるから幸せ、ないから不幸、といいたのではない。ただ、やりたいことだけをやり続けるのは難しい。そして、やりたいことだけをやっていると、いつか将来、いや、もしかしたら近いうちに、やりたいことをやれなくなっている、あるいはこれは本当にやりたいことだったのだろうかと振り返る時が訪れるだろう。これもまた、人それぞれというわけである。
僕は接客があまり好きではない。仕事で誰かと話した時、この場合はもちろん患者さんなわけだが、とても疲れる。ああ、今日もうまくいかなかったなと毎日のように思う。しかし、他人から見ると、営業に向いているねと言われることが多い。自分の不得意だと思っていることだって、他人から見れば長所にうつる場合だってあるのだ。自分のなりたいものや理想は自分が追い求めるはずのものであるが、自分ただひとりで突っ走っても手に入れることが難しいのかもしれない。
地元民へと無料診断のなかに、学校の先生がいた。男の先生だ。小学校の先生をしているとのことだ。珍しいお客も来たものだ。
「どうも、おいでくださいましてありがとうございます。」
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