登校の日(コロナ禍の異化作用)

 高校教員です。

 経験したことのない臨時休校が長らく続き、ようやく、(分散という条件がつきながらも)生徒の登校日が設定できるようになった。
 久しぶりに顔を合わせると、皆割に明るい顔をしていた。どのように過ごしているか心配ではあったのだが、高校生はたくましい。思ったよりもきちんと生活できている様子だった(もちろん、全国の児童生徒全てがそうだというわけではない、私の勤務している学校だけかもしれない。そしてまた、問題が顕在化していないだけかもしれないが)。
 休校中、一番危うい状況の3月末に「一回は生徒に登校してもらって顔を合わせないと…」という声が持ち上がったが、それに反対し、そして反対できるだけの工夫(オンライン利用とか)を凝らしてひとまず良かったな、と少し安心したのであった。
 きちんと顔を合わせなきゃとか、直接会わなければというのは、こちらのエゴが多分に挟まっているのだなと、分かってはいたが改めて感じた。なにせ、相手はデジタルネイティブ。余計に。

 久しぶりの登校日を終えて、オンライン上で生徒に発信したことの一部を、ここにも載せておこうと思う。

 久しぶりの登校日、ありがとうございました。
 通学の疲れ、周りにたくさんの人がいることへの疲れは出ていないでしょうか。
 まずはゆっくり休み、来週へ備えてください。

 教室での授業も久しぶりでしたね。
 学校での授業はよく「退屈な日常」を象徴するものとして語られがちですが、それもこれだけ久々だと、何となく浮足立つというか、「こんなこと毎日やっていたんだっけ?」と不思議な感覚になったのではないでしょうか。

 教員の仕事は色々ありますが、私の本業は授業だと考えています。クラスの皆さんに向けて話をしながら「久しぶりに本当に仕事をしている!」という感覚になりました。授業をやることの楽しさを覚えながらも、きちんと伝わっているかという難しさもセットで感じます。
 その「授業をやる難しさ」は、通常授業が行われていた時はある種のストレスになることもありました。それが今はまんざらでもなかったりして、「授業が始まるのか〜良い授業に向けて色々悩むんだろうなあ〜」なんて思いながら、それが少し嬉しいです。

 「見慣れていたはずのものが、何かの拍子に急に新鮮なものに見えてくる」という現象を「異化」と言います。
 人は、この異化を繰り返すたびに、物事を考える際の視点を増やすことができます。ものの見方も、一つの立場にしがみつく執着を離れて、自由な発想につながっていく、と私は考えています。
 この異化をどれくらい起こせるかが大切だと、授業の時に私はいつも考えますし、そうした瞬間を多く提供したいと思っています。
 このコロナ禍も、ある種異化を促す機会の一つだったと言えるかもしれません。
 とはいえ人の慣れとは恐ろしいもので、またすぐに「退屈な授業」に戻るのかもしれませんが笑、ちょっとした非日常を面白がる、くらいの余裕があるといいかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?