見出し画像

宛名のない手紙はいつか返ってくる(と、信じて)

学校の先生をしています。

今週は、勤務する学校の卒業式だった。
最後のホームルームが終わって沢山の人と話し、写真を撮り、お互いの3年間を讃え合う。
この3年間の全ては、今日を笑って迎えるためにあったのだと思えるほど、嬉しさが何度も頭を駆け巡る日だった。そしてこの嬉しさは自分だけのものではないはず、皆が感じている、通じ合っているのだとも思えた。

このアカウントのプロフィールにも書いているのだが、「伝わる」とは何か?についてよく考えた3年間だった。
自分なりの「生きる上で大切なこと」を伝えていくのがこの職業の1つの使命ではないかと考え、それを色々な方法で表していったつもりだった。
「伝わる」というのはその判定がとても難しくて、「伝わったな」と思っても全然そんなことなかったり、何気なく言ったなんでもない一言が、受け手の心に深く残ったりする。受け手の側も、「わかった」と思っても実は全く違う理解をしてしまったり、逆に良くわかっていなくても無意識に体現できてしまったりする。
「伝わったかどうか」は、その基準が本当に曖昧なのだ。だから、検証も難しく、「結果はわからないけど自己研鑽を続けていく」という状態が常なのである。
文脈の飛躍が大きいと理解されないし、小さすぎると内容の拡張性がなくつまらない。言葉を紡ぐことは、その間でバランスを取り続けるという営みだと思う。
途中、そのバランスを取ることが出来ない時もあった。それでも言葉を吐き出し続けた。

「学級通信」という、担任クラスに配る手紙も、それなりに書いた。
それまで自分は、そんなに文章を書くタイプでもなかった。自分の考えや視点、気持ちを伝えたいと思い、苦手ながらも文を書き始め、書き続けた(このモチベーションは、このnoteを始めるエネルギーにつながっている。原動力は何なのか、まだわからない)。
高校3年の冬、生徒は大学受験のために家庭研修期間に入り、登校日はほとんどなくなる。それでも、書いた。誰に宛てるでもなく、書いた。「宛名のない手紙」を書いては、誰もいない教室に貼り出し、仕事を再開する。
誰のためでもなく自分のために書いている手紙なのだ、とその時改めて思ったのだった。
「伝える」というものは、結局のところ、自分のためにすることなのだろう。

そんな流れがあって、卒業式を迎えた。
最後に、クラスからの寄せ書きや感謝の手紙や言葉をもらった。
宛名のない手紙に返事が来た、と思った。
伝えた言葉が返って来るというのは、当たり前のような奇跡だ。
人と人とは、それぞれの暮らしの中で交差し、時には寄り添い、また、放物線を描くように離れていく。その一瞬の重なりの中でやりとりし、通じ合うこと。これはどういう仕組みなのだろう?と思う。
わからないことだらけの霧の中で、卒業式みたいなハレの日に見る瞬間の美しさ。それだけで、また生きていけるのだろう。

余韻と、寂しさと、嬉しさとが渦を巻いている。
もう少し暖かくなったら、この気持ちもほどけていくだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?