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【パロディ】信じろセリヌンティウス

 セリヌンティウスは激怒した。必ず、かの暗愚魯鈍なメロスとは縁を切らねばならぬと決意した。セリヌンティウスには政治がわからぬ。セリヌンティウスはシラクスの市の石工である。石をいじり、弟子と仲良く暮して来た。けれども損得には人一倍に敏感であった。きょう深夜セリヌンティウスは王城に召された。メロスが途轍もないことをしでかしたらしい。メロスは正義感の強い男だが短気なうえ頭が悪い。いつも無鉄砲な行動を起こし、周りの人間に迷惑をかけていた。しかも今回は王の逆鱗に触れたらしい。馬鹿な男だ。セリヌンティウスは嘲笑した。これでメロスの死刑は確実だ。メロスの妹が近々結婚すると聞いていたが、罪人の妹じゃ今後大変だろう。セリヌンティウスはメロスの妹に同情した。が、セリヌンティウスは不審に思った。なぜ、私が王城に召されるのか。用心深いセリヌンティウスはだんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、なぜ関係のない私が王城に召されるのか、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。セリヌンティウスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声でわずか答えた。
「王様はあなた様を人質に取るのです」
「なんだと?」
「昨日メロス様が王様暗殺計画を企てました」
「それは知っている。だからメロスは死刑になるのではないのか?」
「はい。ですが、メロス様が王様に、その前に村で妹の結婚式を挙げさせて欲しい、とお願いしたのです」
「そんな都合の良い話があるか。メロスに逃げられては元も子もないではないか」
「ええ。ですから王様もメロス様の申し出を鼻で笑われました」
「当然だ。いったいメロスの馬鹿者は何を考えているのか」
「しかしメロス様は、代わりにあなた様を人質として差し出し、三日目の日暮まで王城に帰ってこなかったら、あなた様を絞め殺して下さい、と再度お願いしました」
「なんと。それで私は王城に召されたのか。なんてことだ。きっと王はメロスが逐電することを分かった上で、メロスを逃がしたに違いない」
「おそらくそうでしょう。最後に王様はメロス様に仰いました。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りをきっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は永遠にゆるしてやろうぞ、と」
 聞いて、セリヌンティウスは激怒した。「呆れた男だ。冗談じゃない!」
 やつは昔から私に迷惑をかけてきた。自分ではいっぱしの正義漢ぶってるから始末が悪い。ああいうのを偽善者というのであろう。周りの人間にとってあの男はただの厄介者だ。本当に度し難い男で、数十回罵っても罵り足りない。やつと知り合いになったのは私の人生の中でも最大の過ちだった。単純な男だからなにかと役に立つだろうと思って付き合ってきたが、こんな大それたことをしでかすとは……。いくら好漢ぶってもやつは戻ってこないに決まっている。私はきっと殺される。ああ、あんな危険な男とはとっとと縁を切っておけばよかった。セリヌンティウスは大いに後悔した。
 だが、セリヌンティウスは計算高い男であった。王城に近づくにしたがって冷静さを取り戻した。メロスの軽挙妄動は今に始まったことではない。あの男の愚鈍さを予測できなかったのはたしかに私の計算違いだ。しかし、それを言ってもはじまらない。今は私に出来る最大の対処策を考えることが先決だ。私はどうすればよいのか。
 まず絶対にやってはいけないことは、メロスと対面した時に、感情の赴くままにやつを罵ったり恨み言を言うことだ。これは愚策中の愚策といえよう。そんなことをしたらあの短気な男はきっとへそを曲げるに違いない。ああ、私は友を見損なっていた、と大仰に嘆いてみせ、白々しく自決しようとするかも知れぬ。いずれにしろその後は二人揃って縛り首だ。それともあの男のことだ。友よ、私を信用するがよい、とでも言って偽善者ぶるかも知れないな。その場合は本当に遁走される恐れもある。とにかく今メロスを刺激するのは危険だ。私がやつを疑っていることはおくびにも出してはいけない。
 やはりここは感情を押し殺してメロスを信じきったような風に装うのが一番の策であろう。愚直な男だから私の態度を見て感激し、本当に戻ってくるかも知れぬ。そうすればやつは死刑で私は無罪放免だ。いや、もしかしたらあの男は本当に戻ってくるつもりなのか。だとしたらおめでたい男だ。だが、私はそのおめでたさに一縷の望みをかけるより他に手がない。なにしろ頭の螺子が一本抜けているような男だ。自分の命よりも信義とやらを大切にするやも知れぬ。だいたい今回の一件にしても呆れた話だ。王を暗殺しようなどと大それたことを思いつくまではまだ許せる。だが、買い物を背負ったまま王城に入って巡邏の警吏に捕縛されるなんて、きょうび幼児でもやらない。普通は緻密な暗殺計画なりを立てて行動するものだ。それを散歩にでも行くように短剣を持って城に入るなんて、まったく狂気の沙汰としか言いようがない。しかしまさか本当に狂っているのではないだろうな。もしそうだとしたら、私の助かる可能性は限りなくゼロに近くなる。頼むぞ、メロス。正気を保っていてくれ。
 セリヌンティウスが城に着くと、すぐに王の前に連れていかれた。メロスは縄で縛られていた。セリヌンティウスは横目でちらりとメロスの様子を伺った。メロスは口を真一文字に結び、ぎょろりと一点を睨んでいたが、セリヌンティウスの姿を見た瞬間に相好を崩した。どうやら発狂はしてないように見える。セリヌンティウスは緊張した。さあ、ここからが本番だ。私の一世一代の名演技を見せねばならぬ。メロス、君のことは信じている、そう言ってメロスを抱きしめるのだ。
「セリヌンティウスとやら、この男の話を聞くがよい」暴君ディオニスは威厳を以って、けれども嘲笑を浮かべながらメロスを見やった。その残忍そうな顔にセリヌンティウスは覚えず身震いした。
 メロスは友に一切の事情を語った。セリヌンティウスはさもメロスのことは信じきっているといった様子で話を聞いていた。あの老人に状況は聞いていたが、何もかも初めて聞くような顔をしていた。勿論、そのほうが効果的に自分を演出できると思ったからだ。話を聞きながらセリヌンティウスは推察した。どうやらこの男は発狂したのではないな。自分のことを正直者だと固く信じているようだ。いや、そうに違いない。この男は正義の士を気取っているのだからな。セリヌンティウスは少し安堵した。やはりこいつはおめでたい男だ。それならば、せいぜいこの男の友情ごっこに付き合ってやろう。それでこいつが死刑になって一件落着だ。
 やがてメロスが事情を話し終わると、セリヌンティウス無言で首肯きメロスをひしと抱きしめた。何も言わないほうがいいのではないかと瞬時に思い直したからだ。友と友の間はそのほうがよいのではないかと。そうしてセリヌンティウスは縄打たれた。メロスはすぐに出発した。初夏、満天の星である。
 メロスが出発するとセリヌンティウスは牢屋に入れられた。牢屋に入ってじっと瞑想していると、 牢屋番がセリヌンティウスに言う。「お前もろくでもない友人を持ったものだな。どうせ三日後には死刑の身だ。せいぜいこの世を名残惜しんでおけ」
「言うな!」とセリヌンティウスはいきり立って反駁した。「人の心を疑うのは最も恥ずべき悪徳だ。私はメロスが戻っていることを信じている」
 当然これは演技である。事実、セリヌンティウスは牢屋番の言うことをもっともだと思った。しかしメロスを信じるしかないのだ。不条理にも牢屋に入れられ、自分を死の危険に晒した憎きあの男を信じるしかないのだ。たとえあの男を八つ裂きにしたくとも、決してそれを口に出してはいけない。おもてでは絶えず余裕の笑みを浮かべながらも、内心では必死のそれこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の油汗流しての演技だったのだ。
「やれやれ。お前もあの狂人の仲間か。可哀想に」牢屋番は首をすくめて憫笑した。
 そうして、またたく間に二日が過ぎた。日暮れまでにメロスが帰ってこなければセリヌンティウスが処刑される日だ。
「お師匠様!」弟子のフィロストラトスが面会に来た。
「弟子よ……」そう言うと、セリヌンティウスはあたりに人がいないことを確認して声をひそめていった。「私はどうやらメロスに一ぱいくわされたらしい」
「そんなことはありません」可愛い弟子は涙交じりで否定した。「あのメロスという男は大馬鹿者ですが、自分のことを正義の士と勘違いしています。きっと戻ってくるに違いありません」
「私も最初はそう思っていたのだが、我々が思っているより、あの男はずっと腹黒いのかも知れない」セリヌンティウスは吐息をついた。
「許せません!」フィロストラトスは怒りで体を震わせた。
「このままでは私は死んでも死にきれぬ」セリヌンティウスは遠くを睨みながら言った。「メロスだけは絶対に許せない」
「任せてください。もしお師匠様にもしものことがあったら、私は地獄の果てまでも追っかけていって、あやつに復讐してやります」
「うむ」そう言うと、セリヌンティウスは瞑想し始め、何も言わなくなった。
 私は今宵殺される。殺される為に牢にいるのだ。無思慮な友人の身代りになって死ぬのだ。あんな愚か者のせいで死なねばならぬのだ。私は殺される。さらば、弟子よ。若いセリヌンティウスはつらかった。幾度か発狂しそうになった。えい、えいと心で自身を叱りながら瞑想した。セリヌンティウスは泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。「ああ、私を助けたまえ! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、メロスが城に着くことが出来なかったら、私は殺されるのです」
 しかし、時間はセリヌンティウスの心の叫びをせせら笑う如く進み、とうとう夕刻になった。セリヌンティウスは縄で縛って刑場に連れていかれた。刑場には沢山の群集が集まっていた。皆、セリヌンティウスを指さして憫笑していた。容易に人を信じるからこうなるだとか馬鹿正直な男だとか口々に叫んでいる。黙れ、愚衆。お前たちの言いたいことなど分かっている。だが、私はこうするより他に手がないではないか。
「どうだ。裏切られた気分は?」暴君ディオニスはさも愉快そうな顔でセリヌンティウスを愚弄した。
「メロスは来ます」セリヌンティウスは精一杯の強がりで言った。しかしセリヌンティウスは生きた心地がしなかった。もう日は沈みかけている。あと数十分で日が暮れる。
 セリヌンティウスは流石に観念しはじめていた。幾度となく恐怖を感じ、これではならぬ、と気を取り直したが、ついにがくがくと膝が震え出した。恐怖で立っていることさえままならないのだ。天を仰ぎ心の中でくやし泣きに泣き出した。ああ、あ、あの馬鹿者を信じた振りをし、王さえ欺いてここまで演技をしてきたセリヌンティウスよ。真の知恵者、セリヌンティウスよ。今、ここで恐怖で立てなくなるとは情無い。ここで演技をしなければ、お前はおまえは稀代の疑心の人間、まさしく王の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、正気を保つので精一杯だ。もうどうでもいいという、知恵者に不似合いな暗愚な根性が心の隅に巣喰った。私はこれほど努力したのだ。演技をし続けたのだ。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。恐怖で立てなくなくなるまで演技をして来たのだ。私は愚昧の徒では無い。ああ、できる事なら私の腹を截ち割って、真っ黒のはらわたをお目に掛けたい。利と計算の血液だけで動いているこのはらわたを見せてやりたい。けれども私はこの大事な時に怖気づいたのだ。私はよくよく不幸な男だ。私はきっと笑われる。私の一家も笑われる。私は最後に本音が出そうだ。中途で本音を言うようでは愚盲なメロスと同じだ。ああ、もうどうでもいい。これが私の定った運命なのかも知れない。が、メロスよ、お前だけは許さない。お前はいつでも私に迷惑をかけた。私はお前のことなど大嫌いだった。私たちは友達でも何でもなかったのだ。いちどだって、お前のことを尊敬したことは無かった。いまだって私はお前を軽蔑している。ああ、許せない。地獄に落ちろ、メロス。よくも私を騙してくれた。それを思えばたまらない。お前と出会ったことが私の一生の不覚なのだからな。メロス、私は許さないぞ。お前を許すつもりはみじんも無い。恐怖に怯えているがよい! 私はどんなことがあってもお前を道連れにしてやる。お前は遅れて来るだろう。お前は悲しんだ振りをしながら、陰でほくそえんで私を笑うだろう。そうしてお前は放免される。そうなったら、私は死ぬよりつらい。私は永遠に道化者だ。地上で最も愚かな人種だ。メロスよ、私は死ぬぞ。だが、お前も一緒に死んでもらう。王にお前とは友達でもなんでもないことを白状して憐れを乞うのだ。そうしてお前だけ死刑にしてくれとな。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法だったのだ。私は見事にメロスにしてやられた。ああ、何もかも腹立たしい。お前は汚い裏切り者だ。どうとも勝手にするがよい。やんぬる哉。――涙を流して、王に憐れを乞おうとした。
 ふと耳に聞き慣れた人の話し声が聞えた。見ると遠くで弟子のフィロストラトスが何かを喋っている。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。やったぞ。セリヌンティウスが死んで、これで俺がシラクス一の石工だ。弟子はそう言いながら、喜色満面の笑みを浮かべて、隣の男と談笑していた。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。弟子の言葉でセリヌンティウスは我に返ったのだ。目の前でおべんちゃらを言い、腹の中では何を考えているか解らぬ男よりも、愚かでも正直な男のほうが幾千倍も良いではないか。友を信じてみよう。それしかないのだ。日没までにはまだ間がある。もしかしたらメロスは来るかもしれない。ここで全てを白状したら、今までの演技が全て水の泡だ。メロスは今ここに向かっているかも知れないのだ。あの男の馬鹿正直さを信じるのだ。あの男は皮相浅薄だが人を騙すような男ではないはずだ。私は信じている。信じるしかないのだ。いまはただその一事だ。信じろ! セリヌンティウス。
 私は信じている。私は信じている。先刻のあの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。死の恐怖に直面した時は、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。セリヌンティウス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。友を信じることが出来るようになったじゃないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。私はとうとう処刑されるようだ。だが、もうそんなことはどうでもいい。最後に友を信じることが出来た。さらば、友よ。お前だけは逃げてくれ。
 磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは磔台に昇った。やがてセリヌンティウスは徐々に釣り上げられていった。セリヌンティウスは静かに眼を瞑り、神に祈りを捧げた。
 その時、誰かがセリヌンティウスの両足に齧りつき、かすれた声で叫んだ。
「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」
 メロスだ。メロスが帰ってきたのだ。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄はほどかれたのである。
 セリヌンティウスは茫然としていた。やがて自分が助かったことを理解した。メロスよ、よくぞ帰ってきてくれた。お前はやはり勇気の士だ。信義の士だ。素晴らしい男だった。疑ってすまなかった。馬鹿だと言ってすまなかった。セリヌンティウスは心の中でメロスに謝った。お前こそ真の友だ。
 そこまで考えて、セリヌンティウスはあることに気づいた。そもそも事の発端はこの男ではないか。この男さえつまらぬことをやらねば、私は今頃家でぐうぐう寝てられたのだ。一見、私はメロスに助けられたようだが何のことはない。あの男の一人芝居に付き合わされただけではないか。私はこの男のせいで処刑されそうになったのだ。私はとんだ迷惑を蒙ったのだ。危うく騙されるところであった。そうだ。私はメロスに感謝する必要など何もないのだ。いや、私はこの男を罵倒してもいいくらいのものなのだ。千発殴っても殴り足りないのだ。くそっ。こんな愚鈍な男に騙されるとは私もやきが回ったものだ。
「セリヌンティウス」そんなセリヌンティウスの怒りにも全く気づかず、メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ」
 セリヌンティウスは心の中でせせら笑った。このお調子者はすっかり英雄気取りだ。愚かな大衆もこの男が帰ってきたことで、完全に酔いしれている。しかも、悪い夢を見ただと。ふざけた野郎だ。自分で事件を起こしておいて、私を見捨てようとしたって言うのか。この男の罪は万死に値するな。許されるものなら、この場でこの男を思いっきり面罵してやりたい。が、王の前だ。私はいかにも信じていたというような態度を取らねばならない。まあいい。どうせメロスはめでたく処刑されるのだからな。せいぜい本気でぶん殴ってやる。
 セリヌンティウスはすべてを察したように見せて首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。はらわたが煮え繰り返っていたので、ついつい拳に力が入りすぎてしまった。それを誤魔化すように、殴ってから優しく微笑み、
「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れてはじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない」
 セリヌンティウスは我ながらうまく言ったものだと内心ほくそえんだ。一度くらい疑ったほうが話としては真実味がある。しかもこの馬鹿も一度私を裏切ろうとしているしな。こんな男に殴られるのは胸糞が悪いが仕方がない。
 メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。あまりの痛さにセリヌンティウスは一瞬癇癪を起こしそうになったが、必死に自分をなだめ、殊勝な表情をした。
「ありがとう、友よ」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。勿論、セリヌンティウスは嘘泣きである。ここは最後の勝負どころなのだ。うまく友情ごっこを演じなければならないのだ。
 群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめてこう言った。
「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」
 どっと群衆の間に歓声が起った。
「万歳、王様万歳」
 セリヌンティウスは嘆息した。この暗愚王が。お前までこんな茶番に感動してどうするのだ。これだから無知蒙昧の世間知らずは困る。それにメロスは処刑されないのか。これは当てがはずれたぞ。この男が処刑されれば、私の溜飲も少しは下がるのに。しかも仲間に入れてくれだって。私は最初からメロスとは友達などではないのだ。こんな男と一緒にしないで欲しいものだ。やれやれ、メロスの唐変木のせいで、とんだことになってしまった。もううんざりだ。のみならず、愚かな大衆どももすっかり感激している。まさしくこの王にしてこの民ありか……。笑止だ。
 ひとりの少女が緋のマントをメロスに捧げた。メロスはまごついた。セリヌンティウスは冷笑した。この純情男が。大胆なことをしでかすわりには女にはからきしだ。せめてもの腹いせに、この童貞男でもからかってやるか。
「メロス、君はまっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」
 勇者はひどく赤面した。

 憔悴しきったセリヌンティウスが王城を去り、家路をたどっていた時のことである。
「セリヌンティウス」メロスが後ろの方から走ってきた。セリヌンティウスは鬱陶しかった。こいつのせいでこの三日間は薄氷を踏む思いだったのだ。幸い人目もなかったのでぶっきらぼうに答えた。「なんか用か?」
 セリヌンティウスのそっけない態度を見ても、メロスは一向に笑顔を崩さなかった。
「利用してすまなかったな。だが、これで王様のイメージアップは間違いなしだ」
「利用?」セリヌンティウスは自分の耳を疑った。
「今回の一件は、巧妙に仕組まれた王様の宣伝なのだ」
「なんだと?」
「君はなにも知らないだろうから、この一件の真相を説明しよう」メロスは声をひそめて続けた。「王様が皇后ら沢山の側近を殺したのは君も知っているだろう? 実は、王様が次々と側近の者を殺したのには理由があった。大臣のアレキスと皇后が手を組んで、王様を失脚させようとの動きは本当にあったのだ。その陰謀はかなり大掛かりなもので、一時期は王様の地位さえも脅かすほどだった。しかし王様のご英断により、先頃反王様派は一掃された」そう言うと、メロスは大きく息を吸い込んで続けた。「反王様派との抗争に勝ったものの、大量な人の血が流されたことは確かだ。王様は冷酷無比だ、乱心されたのか、との噂が飛び交うのは当然だろう。正直に内紛とは言えないしな。王様はその噂に大変心を痛めておられたのだ。そこで、私が王様に秘策を授けたのさ。まず、王様は人が信じられなくなって人を殺してしまうという噂を広めた」
「その噂は私も知っている」
「次に、私が王様を殺そうとする。失敗して捕えられる。私は王様に三日間で戻ってくるから、君を人質にしてくれと頼む」
「そのために私が人質になったのか」セリヌンティウスは呆けたようにつぶやいた。
「そうだ。君は人質としては適任だった。なぜなら君は計算高い男だ。人質にされたといって感情的に騒いだりはしない。あの場で私を罵ってもどうにもならないということを君は分かっているからだ」メロスはセリヌンティウスを見やり、苦笑しながら続けた。「君は友を信じている振りをするのが一番得策だと考えただろう? 勿論、その通りだ。そして、君は私たちの期待通り、振舞ってくれたのだ」
 たちまちセリヌンティウスは苦虫を噛み潰したような表情をした。こいつは私の行動心理を読みきっていたのか。あの愚鈍なメロスが? そんな、馬鹿な! そんなセリヌンティウスの心情をよそに、メロスは微笑を携えて続けた。
「あとは君も知っている通りだ。見事に大衆は騙された。王様は疑心の人から一気に信義の人になったというわけさ。10.4%しかなかった王様支持率は、あの直後には95.5%に上がったそうだ。これでしばらくは王様の政権は安泰だな」
 笑顔でそこまで言うと、メロスは眉をひそめた。
「だが、君の弟子のフィロストラトス。あれはとんだくわせ者だな。私の帰り道に山賊を待ち伏せさせてやがった。そのせいで危うく私は遅れるところだった。本当はもう少し早く来るつもりだったのだ。それだけが誤算だったというところか。まあ、今頃やつは王城で処刑されていることだろう」
 セリヌンティウスはうわの空でメロスの話を聞いていた。馬鹿者と思っていたメロスは素晴らしい知恵者だった。そして踊らされた私はとんだ道化者だった、と。
「セリヌンティウス、君はズボンがぐしょぐしょじゃないか。早くパンツを穿きかえるがいい。安心した瞬間に失禁したようだな」
 道化者はひどく狼狽した。
(了)

(平成十五年 三月)

小説が面白いと思ったら、スキしてもらえれば嬉しいです。 講談社から「虫とりのうた」、「赤い蟷螂」、「幼虫旅館」が出版されているので、もしよろしければ! (怖い話です)