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鉄板スパゲティとギリギリス

 一か月ほど前の、母の日に、喫茶店で鉄板スパゲティを、母と二人で食べた。
 熱い鉄板の上に薄く伸ばした卵焼きがあって、その上にナポリタンがある、スパゲティだ。昔はいたるところで、このスパゲティがあった。(東海地方だけかな?)

 その中でも、印象的に記憶の残っているのは、ケーキ屋不二家で、それを食べたことだ。確か2階にあがると、そういう場所があった。なぜか、母とそこで、鉄板スパゲティを食べた記憶がよく残っている。しかも、母と二人きりだった気がする。他の家族が記憶の中にはいないのだ。なぜだろう?少なくとも、弟もいてもいいはず。

 母にそのことを尋ねると、弟もいたんじゃないか、と言っていた。

 でも、私の記憶の中には、鉄板スパゲティを食べているときに、弟はいない。
 ケーキ屋不二家の二階で母と二人で食べている記憶があるのだ。よく考えたら、他にも寿司屋で母と二人で食べた記憶もある。そこにも、弟は存在していない。寿司屋などめったに行かないはずだ。
 つまり、これは母と二人で食べた記憶が、強化された結果かもしれない。母と二人きりで外食などすることはあまりないことだったので、知らないうちにその記憶を何回も思い出していたのかもしれない。
 子ども心に、母親と二人きりで外食した経験は意外に特別なこととして潜在意識に残ったのかもしれない。

 この日の鉄板スパゲティだって、母の日に私がプレゼントしたつもりだが、本当は自分が食べてみたかったのかもしれない。隠れた承認欲求、あるいは小さな自己実現欲求だったのかもしれない。

 自己実現欲求は承認欲求の次に来るものとされるが、これらの欲求は、ごくごく小さい頃に、どれだけ認められるか、ということがとても大事なように感じる。

 アメリカの心理学者アブラハム・マズローが「人間は自己実現に向かって絶えず成長する」として人間の5段階の欲求を提唱した。その五段階とは、

1生理的欲求(Physiological needs)
2安全の欲求(Safety needs)
3社会的欲求(Social needs / love and belonging)
4承認(尊重)の欲求(Esteem)
5自己実現の欲求(Self-actualization)

であるが、私は、これすべて、承認欲求(ただし、4のEsteem(尊重)ではなく、認めてほしいという欲求)が形を変えただけなのではないか、と思っている。

 つまり、
1わたしの存在を認めてほしい。だから食べ物をください(生理的欲求)。
2わたしがここにいます。守ってください(安全の欲求)。
3わたしは何をすればいいですか。何かやらせてください(社会的欲求)。
4わたしはこんなことができます。尊敬してください(承認(尊重)欲求)。
5わたしは自分のしたいことをつぎつぎ実現していきます。見ていてください(自己実現の欲求)。
 という広義の意味での承認欲求なのではないだろうか。

 さらに、この欲求の根源は何かというと「わたしを愛して」という愛情欲求ではないかと思う。

 先日、昔の職場の通信制高校の様子を聞いた。いまは、レポートの締め切り日でてんやわんやだということだった。通信制では、レポートの提出が重要になってくる。それが提出できて、やっと試験を受けられるわけだが、その様子を聞きながら、昔のある生徒、Sさんのことを思い出した。


「S(自分の名)、愛されてるわ~」と笑顔で彼女は立ち去っていった。

 職員室は拍手喝采だった。

 この日が最終試験日で、
 この時間のこの試験にパスしないと、
 卒業できないというSさん、
 無事、最後の最後の試験をパスして、卒業確定となる。

 追試験は何回もあり、事前に受けていれば、何回でも再受験ができるのが通信制のシステムであるのに、わざわざ最終日の最終時間まで試験を残しておくところが強者の「ギリギリス」である。(「キ」リギリスではありません。「ギ」リギリスです。)

 彼女は、ある授業時数が足らず、補習を3回も受けた。本来は2回までだが、卒業がかかっているということで特別に3回とした。その補習もギリギリでいつもすれすれの時間にやって来る。駅からタクシーをつかってやっている。
 どうやら、お化粧などの支度準備にも結構時間がかかるらしく、それも遅れる原因のようだ。

 彼女のような生徒はこの通信制の学校にはたくさんいる。
 他校でギリギリ間に合わず、こちらに来ている生徒たち。

 彼女のように「愛されてるわ~」と明るく言える生徒は、逆に非常に稀有な存在だ。
 多くの生徒は物静かで、対人恐怖症の生徒たちもたくさんいる。

 欲求の根源は、「わたしを愛して」という愛情欲求ではないか、と先ほど述べたが、ある社会主義国の実験(どこの国か忘れました)で赤ちゃんを集団で機械的にただ、食料を提供するだけで育てようとしたところ、そのグループの赤ちゃんは全員死んでしまったらしい。
 栄養は問題ないはずだから、考えられる原因は愛情不足。
 愛情がないと、赤ちゃんは死んでしまうのだ。

「愛されてるわ~」と去って行ったSさん。

 人間は、愛情がなければ、成人しない。
 だから、誰しも必ず愛されて、育って生きているはずではある。
 しかし、十分に愛されている子と、そうでない子はいる。

 化粧をすることで外出できる、という生徒。舌ピアスをしている生徒。
素顔でなく、化粧をすることで安心するのかもしれない。。
そうすることで見えない敵との距離を保つのかもしれない。
 見えない敵、それは幼少期の言いしれない恐怖感、満たされない愛情不足の結果現れた亡霊なのかもしれない。

 Sさんは幼少時、父親の暴力から逃げるために、保護施設で育った経験がある。
 愛されずに暴力で怯えた記憶を「S愛されてるわ~」を笑って書き換える。
 本当に素晴らしいことだと思う。なかなかできることではない。
 愛されなかった記憶も書き換えて、無事卒業していった。

 何事もギリギリで心配をかける子どもたち、そのギリギリ感は

 「わたしを心配して。ギリギリですよ。」

 という愛情欲求の現れなのかもしれない。

 もういい大人になって、母の日にランチを御馳走したつもりの私も、先ほど自説の

5わたしは自分のしたいことをつぎつぎ実現していきます。見ていてください(自己実現の欲求)。

という、広義の意味で承認欲求で、その根底にあるものは、

 やはり、愛情欲求だったのかもしれない。


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