ルポ「つけびの村」 05/06
2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。
『金峰百年の歩み』
ワタルは友一とその妻との間に生まれた5人きょうだいの末っ子ということはすでに1月の取材で知っていたが、まだ存命であるならば、誰か一人にでも話を聞きたい。
また友一の兄である順一、徳市はすでに亡くなっているが、その子供達は、ワタルとは従兄弟の間柄である。子供時代に付き合いがあってもおかしくはない。
周南市立中央図書館に用意してもらっていたのは『金峰百年の歩み』という本だ。金峰地区に近い鹿野町にある、周南市立鹿野図書館に問い合わせをした際、この本が所蔵されていることを聞き、あらかじめ中央図書館に送ってもらっていた。
郷地区にある「金峰杣(そま)の里交流館」は公民館の役割を果たしており、事件当時、村人たちがここに避難していたことはすでに書いた通りである。ここは以前、金峰地区の子供達が通う「金峰小学校」だった。明治8年(1875年)に須万小学校分校として開校し、明治20年(1887年)には分校から独立。郷簡易小学校など名称は何度か変わったが、戦後に金峰小学校となり、昭和50年(1975年)に100周年を迎えた。これを記念し、卒業生らの手によって昭和51年(1976年)に刊行されたのが『金峰百年の歩み』だ。
生徒数は明治後期から戦後がピークだった。明治42年(1909年)には117人、大正11年(1922年)には113人、そして昭和21年には最大の169人となる。昭和30年代には、須万小学校の一部だった奥畑分校が金峰小学校の分校となっていたが、両校とも生徒数の減少が続き、昭和48年(1973年)には生徒数2人となった奥畑分校が金峰小学校に統合された。100周年を迎えた頃は生徒数が11人となっていた。
それでもこの年は、卒業者名簿の編纂や祈念碑の制作とその設置、本書の作成、記念式典のほか、金峰小学校の全室にカラーテレビが設置されるなど華々しい行事が続いたが、児童数の減少には歯止めがかからず、100周年からわずか3年後には鹿野小学校金峰分校へと改校される。平成4年(1992年)には生徒がひとりだけとなった。その児童が卒業した平成7年(1995年)には在籍児童数がゼロに。卒業式の半月後に休校式が行われ、平成15年(2003年)には廃校となった。
ページをめくると最後のほうに「金峰小学校卒業生一覧表」があるのが目に留まった。明治27年度から、昭和50年度までの卒業生の名が並んでいる。眺めると今回の事件の被害者や、ワタルの名前も確認できた。
別のページには一部の卒業生が刊行に合わせて学校の思い出話を綴った作文が掲載されている。そこにワタルの父親、保見友一のものがあった。
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