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ルポ「つけびの村」02/06 〜つけびして 煙り喜ぶ 田舎者〜

2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。

 事件のあった「金峰地区の郷集落」は、山口県周南市の北部にある山村だ。
 その周南市は山口県東部に位置し、重化学工業を主な産業としている。2003年に徳山市、新南陽市など2市2町が合併し発足した。南側の臨海部に広がる工場群は現在「周南コンビナート」と呼ばれ、遊覧船による夜景ツアーが組まれるなど観光名所のひとつとなっている。ここは明治時代に旧海軍の石炭基地が設けられたのち、石炭が石油に代わり石油科学工場が発達。昭和初期には海軍の燃料廠や有機・無機化学、鉄鋼などが集積する工業地帯に成長した。昭和39年には工業整備特別地域に指定され、隣接する下松市、光市とともに重化学工業の拠点としての本格的な整備が進み、製造品の出荷額は山口県の5分の1を占める。
 JR徳山駅はこの「周南コンビナート」の港沿いを走る山陽本線と、東京から博多へ続く山陽新幹線が停車する周南市の中心駅だ。駅名には合併前の都市名がそのまま残る。東京から新幹線で4時間以上かかるが、それでも空路を使うより手っ取り早い。県東部の岩国錦帯橋空港から郷地区は50キロ、西部の山口宇部空港とは90キロ離れていて、乗り継ぎにかかる時間を考えると、やはり新幹線一択になる。


 駅から港に向かい数分歩いたところにある徳山港には、太平洋戦争で海軍が開発していた人間魚雷「回天」の実物大レプリカが展示されている。ここから発着しているフェリーに乗り30分ほどの距離にある大津島には、かつて回天の組立工場と発車訓練基地があった。いまも島には記念館があるが、そこを目指しているとおぼしき観光客の姿はない。
 駅を挟んで港の反対側は中心市街地だ。とはいえその規模は小さい。地方都市の宿命か、駅前のアーケード街に人は数えるほどしか歩いておらず、半分以上の店舗がシャッターを閉じていた。そんな中にも、銀行の支店や市役所、新聞社などが立ち並び、夜は酔客でささやかな賑わいを見せる。
 瀬戸内海に面しているこの辺りの気候は温暖で冬でも晴れる日が多い。滅多に雪も積もらないというが、対して北側は中国山地の一部にあたり山深く、冬の積雪も珍しいことではない。目指す金峰地区は、北側に属する。臨海部の主要産業が重化学工業であるのに対し、北側はぶどうや梨の栽培をはじめとした農業が栄えている。

 2017年1月、私は徳山駅の近くで車を借り、金峰地区に向かった。周南市に私鉄はなく、JR山陽本線も湾岸部しか走っていないので、住民は移動にバスか車を利用している。地元のバス会社はあるにはあるが、運行網は金峰地区から9キロほど離れた場所で途絶えていた。そこからタクシーを探すより、徳山駅から車を走らせた方が早い。
 新幹線の中でスマホのアプリを立ち上げて天気予報をチェックした時、週末には寒波が押し寄せ、日本海側に大雪が降ると告げていた。そのせいか、ダウンコートを着ていても寒い。車を3キロほど走らせると、あっという間にスーパーや飲食店は姿を消し、両側と前方にこんもりとした山が広がり始めた。車線も狭くなるが、それでもまだ道は綺麗に舗装されている。ここでようやく、ガードレールが白でなくオレンジ色であることに気がついた。山口県は昭和38年の山口国体開催にあたり、特色のあるものを作ろうと考え、ガードレールを県特産の「夏みかん」色にしたのである。
 オレンジ色のガードレールが両側に立つ片側一車線の山道は時折くねくねと急カーブを切らなければならないが、15分ほど走ると、ようやくコンビニと開けた小さな町が目に飛び込んできた。金峰と徳山市街地の間にある、唯一の町だ。とはいえ、コンビニぐらいしか買い物できる場所はない。ここで飲み物を調達し、さらに国道で北に向かう。すぐにまた道の両脇を山に囲まれ、先ほどまで快晴だったのが嘘のように空が曇り始めた。家も店もない道をしばらく進むと見えてきたのは菅野湖だ。ここにかかる細く古い橋を渡り、湖沿いの県道41号線をひたすら北上する。バス釣りのメッカのようで、ボートを曳いたクルーザーが何台も停まっていた。下流にスロープがあり、ボートを湖に降ろせるようだ。
 車の西側には深緑色の湖面が広がり、東側の山肌には草木が生い茂っている。まだ徳山駅から30分も走っていないのに、ここまで山深くなるかと驚いてしまう。しかも舗装が悪い。濡れた路面はでこぼこで、ところどころ深く大きな穴が空き、水たまりができていた。スリップして湖に落ちやしないかとすこし怖くなった。
 それでも、湖沿いのボロ道を抜けると、また普通の道路に戻る。ここまで徳山駅から40分ほど。距離にして20キロしか離れてないが、見渡す限り山と田畑が広がる田舎道で、もうコンビニなどどこにもない。
 ところが「金峰の郷集落」にさしかかる直前のすこし開けた平野を走っていると、突如として銀色のUFOと巨大な象が目に飛び込んできた。その脇には『宇宙の入り口』という看板が立っている。
 まだ郷集落にも着いていないのに、思わず車を停め、UFOを眺めた。
 そういえば、菅野湖沿いを走っているときから、小さなUFO型の看板がいくつも立っているのを見ていた。そこには手書きで「気をつけて安全運転」など記されていたが、『宇宙の入り口』へ向かうための案内板だったようだ。
 木材で骨組みを作り、アルミ板のようなものをかぶせて仕上げをした数台のUFOと象のオブジェのほか、幅2メートルはあろうかという巨大な太鼓や、木馬も並んでいる。「このブランコに乗ると結ばれる 愛愛ブランコ」という文字が躍った木製のブランコもあった。いわゆるB級アミューズメントスポットだが、陰惨な事件現場のすぐそばにこのような施設が並んでいると、ただ不気味でしかない。
 車に戻ろうとしたところで、男性に手招きをされた。全て手作りだという、この『宇宙の入り口』の生みの親だった。男性は保見と同い年だが、金峰地区に住むものではなかった。
 再び車に戻る。木々の生い茂る薄暗い道を数分行くと、ようやく金峰の郷集落に着いた。
 事件当時、ここは「携帯電話も通じない限界集落」だといわれていたが、実際に足を運ぶと、ほとんどの場所で携帯電話の柱も立った。
 保見光成の家は、地区名の由来にもなった一千年以上の歴史を持つ金峰神社の参道前にある。ここが郷集落の入り口だ。家は二棟あり、ピンク色の壁をした新宅と、茶色のベニヤ板でできた本宅が、土壁のガレージを挟んでいる。本宅からガレージにかけられたブルーシートは劣化して破れ、風にあおられるたび、焦げ跡のある家の壁や、倉庫の中が見えた。


 保見が関東から戻ってくる際に自力で作ったという新宅のまわりには、枯れ枝が散乱していた。それをかき分け、白い門扉の前に立つ。右脇には茶色い壺や人型のオブジェが、空っぽになって倒れた植木鉢とともに雑然と並んでいる。門の奥にはガラス戸の出入り口があるが、上半分は簾がかかっていて中は見えない。左手に目をやると陶器でできた大道芸人の人形が置かれていた。その奥に立つポストはガムテープで塞がれていて「郵便物は入れないでください 当方へ御用の折は、お手数ですが下記にご連絡ください」と携帯電話番号らしきものが書かれた紙が貼られている。試しにその番号へかけると「現在使われておりません」のアナウンスが流れた。少し下がって全景を見れば、雨どいを支える柱に、CDが貼り付けてあった。再び近づいて目をこらすと、ちょうど保見が金峰に戻ってくる直前である1993年に松任谷由実がリリースしたアルバム『Uーmiz』だ。都会での思い出が詰まっているCDなのだろうか。
 土壁のガレージは車が2台は停められる大きさで、シャッターはついていない。破れたブルーシートを少し開けて中を覗くと、汚れた国旗や工具、工具箱、段ボールやタイヤ、窓枠などで散らかっていた。上部にかけられた針金にもザルやブリキの薬缶といった様々な道具が吊られている。幅が30センチはありそうな、片刃のノコギリのような、見慣れない刃物も吊られていた。隣に無造作に置かれた資材の上には鳥かご。中にはオウムのぬいぐるみが入っていた。新宅、本宅ともに屋根の下にはセンサーライトらしきものの残骸が残る。
 本宅の出入り口引き戸の脇に表札はないが、上にはロールス・ロイスのプレートと、可愛くデフォルメされた熱帯魚のオブジェが貼り付けられていた。
 その右側には、かつてあの貼り紙が貼られていた窓がある。

「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者 かつを」

 これもすでに剥がされていた。
 ガラス窓は汚れ、かなり曇っているが目を凝らして中を見ると、すぐ前に壁があった。11時20分で時を止めた古時計のまわりに扇子が6枚かけられていて、下に備えられた棚の上には陶器の酒樽が置かれている。その脇にあるスリッパ立てには、きちんとスリッパが4組揃えられていた。
 住む人を失った住居特有の寂れ具合を醸し出していたが、事件がなくとも、家主の個性がにじみ出ている家だったことだろう。
 保見光成に撲殺された後、放火された隣の山本さんの家は雑草生い茂る空き地になっており、同じように撲殺され、放火された貞森さんの家の跡には、小型ユンボが置き去りにされ、その脇に真っ黒に焦げた木材が積み上げられていた。3年半経っても、事件の痕跡は集落の中に色濃く残る。


 郷集落入り口の交差点は、通ってきた南からの県道41号線と、東西に伸びる県道9号線がぶつかる。ごくたまに、9号線を大型トラックが轟音を立て猛スピードで走る以外は、ほとんど車も通らない。村人も誰一人、歩いてはいない。道沿いに流れる小川のせせらぎと、山の葉の擦れる音がざわざわと鳴るだけだ。空は晴れたかと思うと雲が広がるというせわしない状態を繰り返しているが、晴れているときでも山が太陽を遮り、道が陰る。路面はやはりところどころ濡れていた。空気は刺すように冷たく、湿っぽい。私は山口県の隣、福岡県出身だが、同じ西日本でもここまで寒さが厳しいとは思っていなかった。
 保見の家のはす向かいにある、砂利が敷き詰められた広場に車を停めた。ここにはかつて廃屋があったというが、今は更地になっている。事件当時は規制線が張られていた小さな橋を渡って、住宅地図を手に、郷集落を奥へと進んだ。車が一台しか通れない細い道が、小さな川に沿って伸びていた。徳山の市街地よりも寒さが厳しく、少し歩くだけで冷えが身体中に広がる。足の先は感覚を失い、手が動かなくなってきた。
 周南市役所の集計によると、2016年12月31日時点での人口はわずか10人。一軒一軒、訪ね歩いても、誰も出てこない。橋を渡ってすぐ右側にあるオレンジ色の瓦の二階建て家屋は、一階がガラス張りで商店のような趣があるが、中を覗いてみたところ生活用品が雑然と散らばり、すでに空き家になっているであろうことは想像がついた。
 その向かいに伸びる石段を登ると、小さな寺がある。脇の寺務所の門を叩き呼びかけたが、やはり誰もいない。再び細い道に戻って集落を奥へと進んだ。道の片側に流れる小川は、冬でも雑草が高く生い茂っている。その反対側にある山を切り開き、古い家屋が点在していた。どの家も車が一台やっと通れるような私道を少し登ったところに建てられていて、脇にある車の停められる大きさの倉庫には農機具や薪などが置かれていた。古い家屋の作りはだいたい同じで、ガラス引き戸の玄関の脇に、両開きの掃き出し窓が二窓ほど並んでいる。
 寺の隣には、本来は公民館だという古く小さな木造の建物があるが、鍵がかかっていて、使われている形跡はない。脇には、殺害された河村聡子さんが名付けたという『金峰杣の里交流館』。集落にある建物の中では目新しく大きい。保見が逮捕されるまで、村人たちが避難していた場所だが、ここも扉には鍵がかかり窓は雨戸が閉められ、ひっそりとしている。
 郷集落についてから人に行き合っていないし、どの家も人の気配がない。心細くなりながら、車が一台しか通れない小川沿いの道をゆっくりと進む。気温が低すぎるせいか、手に持っていたスマホは突然電源が落ち、動かなくなった。小川の反対側には、この道路よりも少し高い位置に県道9号線が沿っている。あの県道からは村の家々が見渡せる。保見の逮捕当時は中継車が停まり、テレビもそこから村の遠景を捉えていた。
 更に細い道を東に進むと左手の高台に家が見えた。見上げると、グレーのトタン屋根一面に『魔女の宅急便』のキキが箒にまたがっている絵が描かれている。さきほどのUFOに負けず劣らずの不気味さだ。玄関前には旭日旗が掲げられ、引き戸の前に置かれたホワイトボードに夏目漱石、福沢諭吉などの名前が書かれていた。すりガラスの引き戸の奥には蛍光灯のあかりがちらちらと見える。扉を叩いて「こんにちは!」と外から呼びかけた。ところが、そのたびに中からテレビとおぼしき音がどんどんと大きくなっていく。4回ほど呼びかけたときには、騒音レベルにテレビの音が大きくなってしまった。真昼なのに薄暗い村を歩いているだけで怖いのに、この家人の対応にまた怖くなり、もう諦めた。
 郷集落の東の端にあるのは、聡子さんとその夫、河村二次男さんの家だ。そこを目指し『魔女の宅急便』の家を離れ、草の生い茂る川沿いを再び歩くと、背の高い木がみっしりと植えられた私道を登った山側の高台に、誰も住むもののいなくなった石村文人さんの家、そしてもう一軒の二階建ての家があった。こちらも不在だった。石村さんの家は家族が時折空気を入れ替えるために訪れていると聞いた。すりガラスの引き戸の奥は真っ暗だ。古く黒い木で作られた表札に『石村文人』と大きく書かれている。その石村さんは3年半前、この引き戸の奥で、保見に頭を何度も殴られ、絶命した。
 保見はこの引き戸を開ける時、何を考えていたのか……。
 隣の家の犬がけたたましく吠えた。さっきの道に戻ろう。
 河村二次男さんが不在の場合、郷集落での取材はかなわない。細道に戻り、さらに先を目指すが、道はさらに草が生い茂り、廃道のような趣になってきた。この先に家があるのだろうかと焦りが募り始めたころ、ようやく家らしきものが見えてきた。大きな物置のようなものが置かれたガレージのそばには、まだ艶のある御影石の墓。玄関引戸の脇には『キンポー整体院』『札所(六代目)』と毛筆で描かれた木の看板がある。引戸の前から呼びかけるとしばらくして高齢の男性が、玄関横の腰高窓を開けて姿を見せた。がっしりとした上半身をしていて、目はギョロッと大きく、出目金のようでもある。
「三年前の事件のことを、今取材している者です。東京から来ました。お話を聞かせていただきたいのですが……」
 駄目元で切り出すと、男性は言った。
「いま扉開けるから、中に入りない」

 その男性、河村二次男さんは事件当時、友人たちと愛媛県に旅行に出かけていた。
「はよう死刑になればいいと思うちょる。でも弁護士のアレで。やってなかったって言いよるけど5人も殺しとるんやけ。火までつけちょるのに。山口で最終弁論があったときに我々もいろいろ言ってアレしたけど、やってないっちゅうことはない。犯人はわかっちょるし火もつけとるんやしね」
 方言と、河村さんの滑舌の悪さに、何を言っているのかよく聞き取れなかったが、根気よく1時間も話を聞くと、少しずつ聞き取れるようになって来た。
「片目にもなっちょるし。こっちは目が見えんし。事故でね。鼻水が出そうになるとかむけど、そのとき耳の鼓膜がいってね。診療所行ったら『あんまり聞こえんほうがいいですよ』って。あはははは」
 かつて車の事故で頭部を負傷し右目を失明したそうだ。あっけらかんと語る様子に面食らった。確かに両目の視線の先が合っていない。それでもガレージに停めてある軽トラックを運転するというから驚いたが、この地では車の運転ができなければ何もできない。
 通された応接間には、壁にびっしりと写真やカレンダーが飾られている。孫娘と笑顔で並んで写った写真も大きく引き伸ばされ、貼られていた。山の頂上で撮影された集合写真もある。河村さんはこのとき79歳だと言っていたが、背筋も曲がっておらず、体つきもがっしりしている。かつては活発に友人らと外に出かけていたのだろう。ガラス戸棚の中には、聡子さんに宛てた孫娘からの手紙があった。整体に関する書籍も並んでいる。公務員を定年まで勤め上げたのち、整体の学校に通い、自宅で整体院を営んでいたという。
「わしは天下りをするなと役場で言ってきた。要請があったけど断ってきた。でもそりゃ、定年になったらなんかせんといかん。手を動かしたらボケん、っちゅうからやってみよう、って。1年ほど学校行きまして。60万ぐらいかかったんじゃないかな。1回3000円でやりよった」
 こうした四方山話を聞きながら、私は〝夜這い〟について河村さんにたずねる機会を伺っていた。編集者が持っていた記事にはこうあったからだ。

―― 私【保見光成】が金峰に戻ってきた直後、竹田(仮名)が、『おめえの兄貴にはイジメられたぞ』って言い始めた/時を同じくして、近隣住民に道で無視されるといった些事から、農機具を燃やされ、挙句に刃物で切りつけられたりといった大事に至るまで/数多の“事件”が起きたという~先の大戦当時、10代半ばだった保見の兄は、母親に言い寄る徴兵忌避の男を追い払い家を守り抜いた。実は、その男の長男こそ、帰郷直後の保見に「兄貴にはイジメられたぞ」とからんだ竹田だったという――前出記事

 記事の中で『竹田』という仮名をあてられ、年齢も伏せられている「強姦魔の息子」とは、いったい誰か。最初に手掛かりになったのは『事件後、金峰周辺の人々は、陰でこう囁きあった。「竹田こそが保見の本命だったじゃろうに……」』という記述。この書きようから察するに、『竹田』は殺害された五人ではなく、七人(事件当時)の生存者の中にいる。
 次に、「兄貴にはイジメられたぞ」発言。保見は、山口地裁で行われた一審公判の中でも、同じ台詞を口にしていた。『「お前の兄貴にはいじめられたぞ」と、カワムラさんに言われました』。
 強姦(夜這い)についての発言はなかったが、相手の名前を挙げていたのだった。となれば、郷集落で生き残っているカワムラさんは目の前にいる河村二次男さん、一人しかいない。
 いよいよ私は聞いた。

――戦時中は、河村さんのお父さんも兵隊に行かれていたんですか?
 強姦魔は徴兵忌避の男だったと記事にあったからだ。
「親父は、背が低すぎて(徴兵)検査に落ちたから兵隊にとられなかった」
 なんと。忌避ではないが、河村さんの父親は戦争に行ってなかったのだという。
 では、河村さん自身は「父親による強姦」が原因で保見の兄にいじめられ、そのことを保見に言ったことがあるのか?
「バカ言っちゃいかん! そげなことは今はじめて聞いた」
 記事の存在をまったく知らなかった河村さんは憤慨した。
 ここでようやく持ってきた記事のコピーを河村さんに見せながら、取材の目的を明かした。すると、しばらく記事を眺めていた河村さんはそこに載っていた「つけび」の貼り紙を指しながら驚くことを言ったのだ。
「これ、うちのうしろに火をつけられたことがあるんですよ。わしはこれじゃないかと思うんですよ。家の前に貼ってる。ここに火をつけて2〜3日で貼っちょったね。家の一番良く見えるところに貼っちょった。下手くそな字でね」
 そしてこう続けた。
「僕が思うにそれは犯人が違うと思うんや」
 保見は事件の時に二軒の家に火を放ったとされているが、保見の他にも火をつけるような村人がいたのか?
「うん、悪いやつおったんよ。それは人から見たら、わしも悪いんかもしれんけど」
 事件の痕跡を色濃く残した郷集落のたたずまいや、『魔女の宅急便』の屋根の変な家もあいまって、私はいよいよ怖くなってきた。
 家を出る時に河村さんは表まで出て来て見送ってくれた。ガレージの中にある物置のようなものはシイタケを乾燥させる機械だと教えてくれた。真新しい墓はやはり聡子さんのものだった。
「あいつ(妻)が先に入っちゃった」と河村さんは言いながら、目元をこすった。
 その後、近隣の集落の村人たちにも話を聞いて回ったが、皆、河村さんと同じことを話した。「河村さんの家の風呂場が焼けた」が、その犯人は「保見ではない」と。
「金峰の夜這い」についても、夜這いそのものが金峰にあったらしいことは分かったが、戦中の夜這い(強姦)を巡る河村家と保見家の禍根について知っている者はいなかった。またそもそも、河村さん自身「長男」ではなかった。
「兄貴は、公務員やなんかやりよった。39で交通事故で死んだからそんで帰った。それまでわしは外に出とった」
 件の記事は、保見の言い分のみをもとに作り上げた記事だった可能性が高まった。
 私は東京に戻り、取材で得た話を原稿にまとめた。だが、一向に記事は掲載されず「送り」になることが続く。一旦はその月刊誌で企画として動き出したが、掲載のタイミングがないのだ。発生からすでに何年も経っている事件では、その裁判に動きがあったときか、もしくは刑が確定したか、さらには、死刑判決を下された犯人に死刑が執行されたときしか、掲載のきっかけはない。だが掲載が延びればギャランティの支払いも先送りとなる。「送り」が3回続いたとき、私はこの記事を「非掲載」にしてもらい、別の実話誌に掲載してもらうことにした。
 こうして『山口連続殺人事件』の仕事は一旦終わったが、しかし私には1月の取材を通じ、もっとこの事件を掘り下げたいという気持ちが沸き起こっていた。いや、事件というよりも、村人たちの話の不吉さが頭から離れず、この不気味な村の正体を知りたくなったのだ。
「つけび」貼り紙の発端となったのが、河村邸放火事件だったことにも驚いたが、村人たちはこんなことも話してくれていた。
「何回かあったらしいよ。何かにつけてケチつけてたけね」
 なんと郷集落での火災は一度ではないというのだ。
 こう話す村人もいた。
「皆殺されて、おらんようになったから、幕引きはできた。私はほんとに安心して生活できるようになったよ。わし自身は。今はもう鍵はかけんけど、鍵をかけ忘れるときも別にどうちゅうことないし、倉庫の鍵をつけたままにしとっても別に何も盗られることもないし、以前はそんなことしよったら何もなくなりよったからね。まだ色々悪いのがおったの。名前をあげりゃ2〜3人そんなものはおったからね」
 まるで事件で村に平穏が訪れたかのような口ぶりなのである。「皆が家族みたいに仲良しだった」集落で、「鍵をかける者などいなかった」という報道に接していた私は、また驚いた。
 さらには、保見について周辺集落を訪ね歩いた時、こんな話を聞いていた。
「親父がコレじゃったけね」
 人差し指を丸めながら、ある村人は言う。保見の父親が泥棒だったというのである。
 そしてある村人は、こちらが真顔で事件のことを尋ねているのに、
「夏はね、亡くなった山本さんやら貞森さんやら、石村さんやらとね、蛍でも出たらね、夕方に『蛍見よう』ゆうてから、仕事から帰ってね、おかずの一品でも作って、皆で集まってビール飲みよったけど。みーんな、その仲間は、殺されてしもうたね。あはははは……」
 と、なぜか高らかに笑うのだ。
 一体、この村はなんなのだ。
 保見が事件を起こす前から、泥棒や放火といった悪事は村で日常としてあったのか?
 一方、保見に対する具体的な〝いじめ〟についても、このとき村人たちに尋ねていたが、確たる証拠は得られなかった。
 たしかに判決でも、近隣住民による保見への「うわさ」や「挑発行為」そして「嫌がらせ」は、保見の思い込みであり、徐々に妄想を深めて村人たちを恨んだ結果、起こした事件だった……と認定されていることは先にも書いた。
 そうはいっても、完全に妄想だけでこれだけの事件を起こすだろうか。
 公判を傍聴した中にも、その疑いを抱いた者がいた。旧知の傍聴マニアのひとりだ。いじめがあったのではと考えたそのマニアは、関東から山口地裁まで傍聴に出向き、いくつかの期日の審理を傍聴していた。保見が具体的な話をしていなかったか尋ねたところ「犬の水飲みバケツに農薬を入れられた……とかは話してました」という。だが、他にはさっぱりそれらしい話をしなかったというのだ。
「『何をされましたか』って公判で質問されたらやっぱり刺された話をするもんじゃないですか。貞森さんから刺されたことは事実ですから。でもその話はしてないんですよ。『街宣車が来ると家の前で心を入れ替えなさいと言われる』とか話し始めるんです。家の前でかならず『心を入れ替えなさい』と同じところをテープで大音量で流されるって。そういう妄想の話しか出てこなくて、肝心な話をしないんですよ」
 また保見は公判で「自宅で作っていたカレーに農薬を入れられた」という話もしていたのだが、よく聞けばそれが〝いじめ〟かどうか、怪しかった。
「一ヶ月分まとめて七輪で作るんです。普通に考えると一ヶ月分作ったら最後の方は腐って食中毒になりますよね。冷蔵庫に入れるでもなく勝手口で作っているんです。そのカレー鍋に農薬を入れられて食べて死にそうになったって保見は言っているんだけど、それは農薬のせいじゃなくて腐ってたんじゃないか? って聞いた方は思うじゃないですか」
 私が当初期待していたほど、公判で保見は〝いじめ〟についての詳細を語ることはしていなかったのだ。

 保見と同じように集落に住む一人の人間が突如として 近隣の者たちを皆殺しにする事件を、私は他にも知っていた。1938年に岡山県津山市の貝尾部落で起きた『津山三十人殺し』である。実際、山口連続殺人事件を〝平成の津山事件〟と報じるマスメディアもあった。
 田舎の限界集落で、周囲に馴染めない一人の男が突如として村人たちを殺害してまわる……たしかに二つの事件は似ている。津山事件の犯人は、当時21歳だった都井睦雄。匕首と日本刀、九連発ブローニング猟銃を携え、自宅の祖母の首を刎ねたのを皮切りに、わずか一時間半の間に三十人を殺害し、近くの山で猟銃自殺した。
 保見光成は自殺まではしなかったが、この二人が、自らも暮す集落の人々に対して、強い嫌悪感を抱いていたことも共通する。『津山三十人殺し』(筑波昭/新潮社)によれば、都井は三通の遺書を残しており、そこには集落の人々への恨みが綴られていた。一部の村人は都井が患っていた病気を毛嫌いし「肺病の一家や、近づいたらあかんぞ」などと直接言っていたといわれる。対する保見は、事件の二年前の元旦に周南警察署を訪れ、「地区で孤立している。集落で悪口を言われている」などと、のちに殺害することになる被害者たちの名を上げていたほか、逮捕直後にも、近所の人の名を挙げて「うまくいってなかった」と語っていた。
 それよりももっと、共通点を感じる大量殺人事件を私は過去に傍聴していた。2004年に兵庫県加古川市で発生した『加古川七人殺し』だ。当時47歳だった藤城康孝は8月2日の午前3時半、突如、近隣に住む親戚を次々に牛肉解体用の特殊な包丁で刺してまわり、7人を殺害したのち、自宅に放火し、ガソリンを積んだ車に乗り込み発車し、それを近所の信号柱にぶつけ、自殺を図るが警察官に引きずり出されて逮捕されたという事件だ。
 保見の逮捕のニュースに接した際、私は津山事件でなく加古川事件を真っ先に思い浮かべた。2009年に神戸地方裁判所で論告弁論を傍聴した際に、検察側が近隣住民との諍いについて述べたのだ。
「周辺は古くからの農村で人間関係が濃密。ささいな出来事も話題にのぼり、噂になる土地柄です。
 被告人一家は権利関係があいまいなまま本家の土地の一部に住み続けていました。また被告人は近所でもけんかっ早くて有名で、定職につかず、被告人の父は昭和62年に『年金を1人で使いたい』と家出します。しかし周りには『被告人の暴力から逃げる』と嘘をつきました。被告人の兄弟は自立しており、母親が靴下製造工場でパートとして働き、生計を立てていました。
 被告人は当時、老齢の母と2人で暮らしており、常に噂話の対象となっていました。被告人の母はこう述べています。
『夫が家にいた頃まではあまりにも露骨な噂話はありませんでしたが、夫がいなくなってから格好の噂の対象になりました。遠慮もなくなり、外出時には利彦の妻、周囲の住民が井戸端会議をしていました。挨拶をしても返さず、声を潜めその場を離れて行きます。娘も「あの人ら何なん。いつも悪口言ってる」と言っていました』
 また被害者のひとりと立ち話していた近所の女性は『被告人の姿はたまにしか見かけませんでした。平日の昼も家にいるようで、まともに仕事もしてないこともわかっていましたが、何か仕事しとるんやろか、と噂していました』と述べています。
 このような環境で被告人は周囲が自分を見下していると考え、怒りを募らせていったのです」
 藤城に対しては何度も精神鑑定が行われた。一審・神戸地裁では弁護側請求による鑑定と、検察側請求による鑑定。二審・大阪高裁では裁判所が職権で鑑定。一審弁護側請求鑑定と二審の鑑定では、保見と同じく『妄想性障害』という診断が下された。だがそれに伴う責任能力の有無については、保見とは扱いが異なった、一審弁護側請求鑑定で「完全責任能力を否定」し、二審の鑑定でも「判断能力に著しく障害があった」と責任能力が限定的であったとされたのだが、神戸地裁も大阪高裁も、完全責任能力があったと判断したのだ。最終的に最高裁でも『妄想性障害はあったが完全責任能力はあった』と認定されている。だが近隣住民による「うわさ」や「挨拶をしても返さない」などのいじめが存在したことは神戸地検も争ってはいなかった。

 集落にはそれぞれの性質がある。ひとくちに〝村八分〟といっても、その性質により、内容も異なる。先のふたつの事件では、都井に対しては直接的な悪口、藤城に対しては陰口や無視といった行為がそれにあたる。保見に対してはどうだったか。1月に触れた郷集落の不気味さの片鱗だけでなく、村の本当の姿を知らなければ、保見の感じていた疎外感を知ることもできない。
 私は、改めてこの郷集落における保見がいかなる存在だったのかを追うことにした。まだ梅雨は明けていなかった。

保見ちゃん

 保見光成は昭和24(1949)年12月に郷集落で生まれ、地元の金峰小学校に入学。鹿野中学校を卒業後に上京し、先に上京していた長兄と仕事をしていた。17歳の頃にボクシングを始め、ジムを何度か移ったが、そのうち兄とやっていた仕事を辞め、ジムに住み込む。パチンコ屋でも住み込みで働いていたという。
 山口地方裁判所で行われた裁判員裁判の検察側被告人質問(第七回公判)で、保見は自らの経歴を問われ、こう語っている。

検察官「金峰を出たあと、関東ではどのような仕事をしましたか?」
保見「いろいろあります。石貼り(タイル)、のろ貼り(セメント)、軽天(天井)、建築に関すること、ほとんど。住込みのパチンコも、あっ、すし屋……」

 時は高度経済成長期。若い労働者が金の卵としてもてはやされた時代だ。左官や土建業を中心に、保見はさまざまな仕事を渡り歩いた。
「東京では、やればやるだけ金がもらえた。当時は月200万の収入があった。貯金は1500万ぐらい」
 全盛期は、仕事場にシュラフを持ち込み、夜になるとそこに潜り込んで眠り、目覚めてすぐに現場仕事に取り掛かる、という生活をしていた、と村人たちは保見から聞いていた。だが、本当にずっとそんな調子で稼げていたかは、分からない。

「体の調子が悪いから、戻ってきてほしい」

 父親の友一からこんな連絡を受け、郷に戻ることを決めた保見光成は、1994年10月、元駐在所の本宅に隣接する土地を、その所有者であり事件の被害者となった石村文人さんから購入し、当時住んでいた関東と金峰を往復しながら自力で新宅を完成させた。1996年5月、拠点を金峰に移し、両親との3人暮らしが始まる。このときには1000万円の貯金があった。
 土地の購入に関しては、郷地区から少し離れた金峰谷(みたけだに)という集落に住んでいた、鹿野町(当時)の町会議員、三浦富貴人(ふきと)さんが、高齢の友一夫妻を心配し、保見へ譲ることを石村さんにすすめたのだと地元では言われている。その富貴人さんは事件が起こった年に亡くなった。
 石村さんから購入した土地の登記簿を確認すると、郷地区に戻る直前の、保見の住所が確認できた。神奈川県川崎市多摩区のアパートだ。京王・JR両線の稲田堤駅から北東に1キロほど進んだその場所を尋ねたが、すでにアパートはなくなっていた。古い平屋住宅、低層階の古いマンションやアパートが立ち並ぶ中に、造園屋や工務店などが点在している。真新しい建売の戸建てが、ところどころに出来始めていた。
「あいつのタイルの親方がこの辺にいたんだけど引っ越しちゃったんだよな。職人としての腕はよかったよ。やっこさんが住んでたところの隣に3階建てのマンションがあるのよ。そこを奴がやったんだよね。外壁を」
 当時の保見を知る男性はこう語った。確かに、アパートの跡地すぐそばに、1991年3月に建てられたクリーム色のタイル張りマンションがあった。仕事は順調だったように見える。だが、このマンションが完成して数年後に「親が体の調子が悪いから、家に帰んなきゃなんねえんだ」と言い、金峰に戻ってしまった。
 保見はこの地に住んでいる当時、稲田堤の駅前に古くからある、焼き鳥屋の常連になっていた。その店主である〝森さん夫妻〟(仮名)が、保見と同年代で、仲が良かったという。保見が住んでいたアパート跡地の近所にある森さん宅を何度か尋ね、奥さんに話を聞いていた。「あの事件があったときは田舎(山口)からも取材が来てたのよ」という。
 多摩川沿いにあるその家で夫妻は現在、甲斐犬のブリーダーをやっている。奥から何頭もの犬の鳴き声がけたたましく響くなか、玄関で取材に応じてくれた。
「私もお店(焼き鳥屋)に出ていて、当時子供も小さかったから、保見ちゃんに見てもらったりなんかしてたんです。その当時、別にどこか異常だとか感じたこともなかったしね。ただなんか神経質っていうかな。仕事は熱心だし真面目だし。真面目なんですよ。だから逆に真面目だからこそ、融通がきかないってのはあった。でもそれって、男でも女でも、人によって性格ってあるじゃないですか。
 保見ちゃんが働いてるとこの従業員の方とか社長とか飲みに来たり、自宅にも飲みに来たりなんかして家族ぐるみの付き合いしてたね。『あいつは気は短いけどでも気持ちはいいぞ』って社長は言ってました。わたしもホミちゃんのところに遊びに行ったことあるけど。だけど別にどうってことないし、ちゃんと洗濯もきちっとしてるし支払いもきちっとしてたからね、そういう付き合いはしてたんですよ。あんまり変な人だとね、うちも子供が女の子だから付き合えないし。
 保見ちゃんは、仕事が早く終わっちゃうと『一杯飲ませてくれとか』早い時間に店に来て喋ってたり。でも仕込みなんかで私たち夫婦は忙しいから、酒も出してる暇ないからね。だから自分で出して伝票も自分でつけてくれてたり。そんな感じでみんなで和気藹々とやってましたよ」
 そもそもの出会いは、当時森さん夫妻が切り盛りしていた焼き鳥屋に、保見がタイル職人の親方に連れられて来店したのがはじまりだった。
「保見ちゃんに会ったら言っといて。稲田堤のババアが年取ったって。娘は大きくなって孫もできたよ、保見ちゃんありがとうね、って」
 ちょうど家の奥から電話が鳴り出し、ここで話は途切れてしまった。

 稲田堤に住んでいたころの保見は、タイル張りの仕事に精を出し、行きつけの焼き鳥屋で交流の輪を広げ、仲の良い友人と一緒に釣りに行き、その魚を近所におすそ分けもする、でも頑固で細かいところもあった、普通の〝職人のおっちゃん〟だった。
 では、金峰地区に戻ってからはどうだったのか。

ワタル

 1月と同じように徳山駅から車で菅野湖沿いの県道41号を北上する。片側が湖、片側が山になっていて車一台しか通れない道だが、6月下旬ともなると、山から生い茂る雑草が伸びてきて、車の側面に葉が触れる音がかさかさと車中に響く。たどり着いた金峰地区も同じく、緑が生い茂っていた。
 この県道41号と、それよりも道幅が広い県道9号がぶつかる地点に保見とその両親が暮らした家がいまもある。41号を挟んだ向かい、西側には金峰神社へと続く参道がのびていた。保見の家から参道の方を眺めたとき、その脇に見えるのが金峰山(きんぽうざん)だ。
 前回訪れた時と村の佇まいは変わっていないが、季節が冬から梅雨になったことで、山の木々や道路沿いの雑草はさらに青々と生い茂っていた。そして、なんといっても虫が多い。歩いていても、止まっていても、走っても、身体中に小さな羽虫がまとわりついてくる。何をしていても虫たちが耳元で小さな羽音を響かせ、とくに顔に集まってくるから堪らない。小さな叫び声をあげるが、周りには誰もいない。手に持ったタオルで顔に寄ってくる虫をはたきつつ、郷集落や近隣の集落を訪ね歩いた。
 保見光成は、もともとの名前を『中』(わたる)という。そのため皆、保見のことを『ワタル』と言って話す。
 事件直前のワタルは、関東に住んでいた時の人物像とはまるでかけ離れた攻撃的な村人として、郷地区で敬遠されていた。妻の聡子さんを殺害された河村二次男さんが言う。
「うちの田んぼがワタルんちの前にあった。そこで女房が仕事をしとると、ワタルが家から窓開けて、歌を歌うて、おびくわけ。おびく、っち分かるかな、罵る、ちゅうこと。カラオケでギャーンと流す、そういうことしよった。女房は『気持ち悪い』っちゅうけど、わしは『取り合わんがいい』と言いよったんよ。
 女の人は集まって井戸端会議とかするじゃないですか。それを、まあ、ワタルの家の前に鳥居があるからね、そこで山本さんとうちの女房が話をしよったらワタルが外に出てきて犬の散歩がてら『お前ら殺したろうか』っちゅうわけ。『お前ら二人じゃつまらんけ、もう何人か連れてきてやっちゃろか』と。そういうこと言うわけ。
 女房がワタルの向かいの家に行っとるときに車で送って、お宮の前に車止めて、向こう見とったらワタルの家の方向くでしょ。そうしたら『お前何の用事があるんか』と言ってくる。そりゃあね、わしらも多少あれやったけど、田舎のものにあげなこと言うたら恐れる。あれは恐ろしい」
 道ゆく村人たちに食ってかかり、時には殺害も仄めかす。完璧な危険人物に成り果てていたようだ。
 別の住民も「貞森誠さんがワタルに掴みかかられた」、「棒みたいなん持って犬を散歩しよった。会うと『10人くらい殺して死のうと思う』とよう言いよった。思いがあったんかなんなんか。それを私はなんでとは問わんよね、怖いから」など口々に振り返る。
「夕方にカラオケかけて歌いよった。5時ごろ出たら歌ってるよ。『およげ!たいやきくん』やらね、そういう歌よ。すごい外に大きく聞こえるように。マイクをこうね。山側のほうに向けてね」
 しかも、食ってかかるだけでなく実際に暴力も振るい、挙げ句の果てに毎日のようにカラオケで熱唱していたというのだから、確かにこれは、田舎のものでなくとも、恐ろしい。
 当のワタルは一審山口地裁の被告人質問で、当時の生活パターンを検察官から問われこう答えている。
「最後はわからなくなった。朝5時半散歩して、家でカラオケ。事件2~3か月前はなんもやってなかった。ポケーとして声を出すこともなかった。人の話を聞きたくない」
 最初の頃に自宅の窯で陶芸をやっていたことを覚えていた村人もいたが、それもいつしかやめていた。
 村人たちにはその言動を不審がられていたが、家の中はそれにもまして不気味だった。地下のトレーニングルームを中心に、自作の〝ポエム〟がびっしりと壁に貼られていたのである。一審公判の証拠調べで、法廷の壁にかけられた大型モニターにその壁の様子が映し出されている。傍聴した記者やマニアは一様にこの写真のことを真っ先に挙げ「すごかった」と語るほどだ。

「何かしなければ全て認めて死ぬことになる 悪者にされ一人死んでたまるか」
「試合である 警察に訴えない 病院代の請求 遺恨残さず」
「あなたの性根の悪さがよく分かる がまん がまん がまん いつまでどこまで リオブラボー」
「もんぺ下げ 散歩の亀に 餌をやる」
「無神経 なのに 神経痛」
「玄関前に横たわる ぴくりとも動かない 仇討ち」

 エロと恨みが共存したこれら不穏な〝ポエム〟は、村人への恨みから来るものなのではないか? そう一審公判で検察官が追求していたが、ワタルはそれを否定していた。こんな調子でだ。
「ルームの紙は両親が亡くなった後書いた。どういうつもりでって……つらい気持ちで書いた。見る時はなんともないです。子供がいじめられて日記書くでしょ、死ね死ね死ねとか。吐き出してすっきりする。そういうもんです」

 そうは言っても、すっきりできなかったから事件は起こったのではないか。
 事件直前は村の危険人物に成り果て、草むしりなどの集落の作業にも、自治会の仕事も参加せず、回覧板も受け取らない生活をしていたワタルだが、最初からそうだったわけではない。
 関東に出る前の幼少期は、ガキ大将として近所の子供を引き連れて遊んでいた。連れ回されるのが嫌で、子供たちはたいてい、ワタルが遊びに来る前に外に出るようにしていたという。いじめられていた同級生を守ってあげたこともある。
 1996年5月に郷地区に戻って来たばかりの頃も、いわゆる変人ではなかった。戻った翌月には自治会の旅行に参加した。その翌月に開かれた歓迎会にも参加して、自己紹介をし、村人たちの輪の中にすすんで入ろうとしている。2日連続の公民館行事に参加もした。旅行でのワタルの様子を覚えている村人はいない。ということは逆に言えば取り立てて何も問題がなかったのだろう。だが歓迎会でワタルは、自分がこの地で何をしたいか、村人たちに提案をした。
 公判を傍聴したマニアが、この当時の情報を語ってくれた。
「本人に面接し本鑑定を行なった精神科医が、彼は『村おこしに失敗した』と言っていました。その一言だけで、具体的には何に失敗したのか言っていなかったんです。本人は手に職があるからバリアフリーをやってみたり、年寄りが多いから色々と電気の付け替えとか、便利屋さんをやろうと思っていて、戻って来た年にあの新しい家で『シルバーハウスHOMI』を開業したんです。そこでやっぱり介護とかデイサービスみたいなこともやろうと思ったんじゃないですかね」
 ワタルは自力で建てた新宅で、リフォーム業を主とする便利屋を開業しようとしていた。当時すでに過疎化が進んでいた村を盛り上げたいという意志を持っていたという。新宅は、その拠点にしようというワタルの思いが込められた造りになっている。
「気軽に集まってもらったり、お酒を飲んで歌ったり話をしたりしたら楽しいよね」
 ある村人は、ワタルからこう聞いていた。いま草に覆われている新宅の扉の奥には、カウンターバーがあり、カラオケ機器も当初から取り付けられていた。地下にはトレーニングルーム、さらには陶芸のための窯もあった。
 ワタルはここを村人たちの交流の場として作ったのだ。
 日々ドアを開けてふらっと訪れる村人たちと、カウンターでお酒を飲みながら交流を深め、地元を盛り上げるための色々な案を考えていきたい……そう考えていたという。
 当初『シルバーハウスHOMI』を訪れたことのある村人は言う。
「すごいバーを作って、外は飲み屋のようにネオンがつくようにしちょった。中もお店みたいじゃったよ」
 だがすぐに、誰もそこに行かなくなったのだという。村人は続けた。
「そうするためにはやっぱり人間関係がないとねえ」
 ワタルは自作の新宅を集落の新しい拠点として、村人たちが楽しめるような設備を作り、村を盛り上げようと胸を膨らませていた。だが真っ暗な村に一軒だけネオンが輝く様は、不釣り合いであり、浮いていた。そしてワタル自身も、まず村人たちとの信頼関係を築く前に、近代的な家の設備で村人を呼び寄せようとしていたことが裏目に出た。『Uターンハイ』とも形容できるような状態になっていたのだろう。
 都会から戻ってきた俺が、こんな家を作った。これで村も盛り上がる。さあ、皆ここに集まってくれ……。
 年長者ばかりのこの村で、それは通用しなかった。やはり村に戻ってきたからには、自治会の仕事に参加し、数ヶ月に一度行われる草むしりなどの仕事にも精を出し、先輩となる村人たちとの調和を図ってはじめて、村に受け入れられるのがセオリーだ。冷静に見ても確かに、その案は強引に映る。
 歓迎会の席上から、ワタルは村人にあまり良い印象を抱かれてはいなかった。都会帰りでハイな状態のワタルは、村人たちにとっては、うっとうしかったのかもしれない。この村を盛り上げるためのワタルなりの村おこし……新宅を村人たちの交流の拠点とする案は、あっさりと年長者たちに否定されてしまったのだ。
「最初には、光成自身が外森(仮名)に相談をしたの。年代が違わんから『金峰おこしをしようじゃないか』と相談をもちかけたのは光成のほうやね。最初に自治会で出会ってその話をしたと。その時に外森が『それじゃ二人でやろう』ちゅうて。そのままやったらよかったんじゃが、あとのあおりが怖いちゅうんで、外森がおそれて手を引いたから、光成自身が一人悪者になった」
 ワタルの村おこしの顛末を知る村人は、こう語った。外森さんとは郷地区にある玉真寺という寺の住職で、ワタルよりも少し若い男性だ。郷地区から7キロほど西に離れたところにある寺の住職も兼ねており、事件後はほぼそちらに住んでいるのだという。彼と当初は〝村おこし〟をしようとしたが、外森さんから梯子を外されてしまったのである。
 出鼻をくじかれたことで金峰・郷集落での生活は幸先の悪いスタートを切った。集落のもやい仕事に参加したのも最初だけだ。「気が弱いところもあった」とも評されるワタルなので、理想の村おこしを反対されたことで萎縮したのかもしれない。人間関係が築かれてくれば、長期的には『シルバーハウスHOMI』を村おこしの拠点とすることも無理ではなかっただろうが、ワタルはそれをしなかった。
 そんな中でも『シルバーハウスHOMI』のために、店のチラシを印刷してあげたりする村人もいた。実際、初めの頃は徳山の方へ出向き、リフォームを請け負ったこともあるというが、そのうち開店休業状態となる。
 関東と金峰を往復して作ったこの新宅には、ワタルが思い描く郷集落での理想の生活が詰まっていた。だが『シルバーハウスHOMI』は、稲田堤の焼き鳥屋のように、地元の村人たちが集まる場所にはならなかった。いつしかトレーニングルームは自身の鬱屈した思いを書き連ねたポエムが壁一面に貼られる禍々しい空間へと変貌し、カラオケを一緒に楽しむ村人が訪れる日は来ないまま、一人でひたすら「およげ!たいやきくん」を歌っていた。

 ―― 過疎化した金峰では、子どもの住む街へ出るお年寄りが多い。そんな中、保見(ほみ)友一さん(93)の二男、中(わたる)さんが九四年、川崎市から帰ってきた。十五歳のころ、都会にあこがれ東京へ出たが、「自分の生まれたところで死にたい」という思いは消えなかった。
 工務店勤務の経験を生かし、老いた両親のために部屋の段差をなくし、手すりをつけた。一年ほど前、母のタケヨさんが病気で倒れ入院した。「うちに帰りたい」と言う母のために自宅で介護を始めた。おしめを換え、たんを取った。
 昨年十二月末、八十七歳の母をみとり、父と二人暮らしになった。「親が子どもを育て、年をとる。 そんな親をみるのは子どもの義務」。父が毎日手を合わせる仏壇の周りにも手すりを付けた。(2003年4月19日読売新聞朝刊)――

 金峰地区に住む高齢者と、その子供たちについて触れた記事だ。この翌年、友一も死んだ。村人の中には「両親が死んでから、おかしくなった」と言う者がいた。確かにこの頃から、家の前に雑然と置かれたオブジェの様子が異様なものへと変わり始めたようだ。
「ブラジャーをつけた変なマネキンを家の前に飾ったりして、どんどん様子が変になって言った」
 地下のトレーニングルームの貼り紙も、この頃から始まった。

 郷集落から5キロほど離れた別の集落に、ワタルと友一を知る村人がいた。82歳になるその男性は、この地で長らく酒屋を営んでいた。平成16年(2004年)に店を畳むまで、近隣の家へ酒の販売・配達をしていたのだという。
「お父さんはわしもよく知っちょる方じゃある。まあ椅子に座りない」
 男性は、保見の父・友一と、保見の母が生きているころ、郷集落のあの家に酒を配達していた。
「犯人のあれも、話したことがある。まあ、あれがあんなことをするとは思われんような。穏やかな人だと思うちょった。犯人の家はお父さんお母さんの家のすぐ隣に作っちょった。お酒の配達はお父さんが飲みよったけ、そっちの古い方の家に行きよった。お父さんと話するけど犯人とも話する。あそこは夫婦仲もよかったし。喧嘩ちゅうようなことはなかったですよ。犯人のほうも、大きな声をあげてどうじゃこうじゃ言う人じゃなかった」
 郷集落の人々は、酒税法が変わり酒のディスカウント店が都市部にできるまで、めいめい決まった酒屋から酒を頼んでいたという。男性は郷集落では保見家だけに配達をしていた。
 話を聞きながら、ふと、元酒屋だったというその家の土間を見回すと、ワタルとはタイプの違う、前向きな自筆の標語が壁一面にびっしりと貼られていて、そちらに気を取られてしまいそうになった。腕に蚊が止まっても、気づかないのか、そのまま話し続けていた。
「ひと月に一回注文があった。いっぺんに持って行くのが一升瓶10本。多いですよ。わっはっは。よう飲みよったです」
 酒飲みだったが穏やかな家族だった……。こう男性は言うが、郷集落とその近くでは違った評判が立っていた。
〝穏やかな人〟だったというワタルに関してはこうだ。
「帰った当時は集落の旅行にでも行きよったよ。それならええわけ。でも、仕事をせん! 集落の村の仕事にも出ん。はしからそうなっていったんや。そりゃ人が相手にせんにゃ」
「ものを人にあげるような人じゃなかった。うん、そういうところはなかったですね。飲みに行った人のところに次に行くときさ、ビールの一本ぐらい持って行くとかさ、そういうのが一切なかった」
「なめこがたくさん採れた年に、分けちゃろうとおもって、なめこ食べるか? って聞いたら『おう食うど。しいたけは埃臭いから好かんけどなめこならええど』って、ありがとうはない」
 都会から戻ってきた若者……と言っても、すでにこのとき40代半ばだったが……なのに、年長者たちに礼を言わず、集落の仕事にも参加をしない。川崎・稲田堤に住んでいた時とは違う尊大な態度のワタルに、郷集落の村人たちは距離を置いていった。剛に入りては郷に従え。特に人口の少ない集落においては重要かつ唯一ともいえる処世術になるが、ワタルはこれを拒否し、村人たちもそれを苦々しく思っていた。2009年にワタルが「光成」に改名したが、それを村人たちが知ったのは、事件の後の逮捕報道でだった。

 このように郷集落に戻ってきてからのワタルの、あまり良くない言動は、村人から暇なく聞かれるのだが、報じられていた具体的ないじめ行為については確たる話が出てこない。
 一審公判の冒頭陳述では、近隣住民との諍いの経緯が時系列で明らかにされているが、そこで出たのは「平成20年8月の河村さんとの農薬散布トラブル」、「平成21年5月 飼い犬を巡り河村さんと口論」、「平成25年はじめ 飼い犬のフンをめぐるトラブル」などだった。だがこういう裁判では被害者側の生前の非を隠すこともある。
 事件当時に現場を取材した記者によると、そのときは郷集落に貼られた規制線のため、中に住む村人たちへの取材はできない状況だったことから、金峰山を超えた鹿野町などでも取材が行われていた。そこで記者は、こんな話をする住民に出会ったそうだ。
「せっかくみんなのために買った草刈機を、あぜ道に置いたまま忘れて帰ったら燃やされたっていう話を聞いてました」
 そのほかにも、すでに書いたように「庭に除草剤を撒かれる」「『犬が臭い』と文句を言われる」などの出来事が起こっていたと〝遠くの村人〟たちは口々に言うのだが、当の郷集落の村人たちに聞いてもそのような話が出てこないのだ。
「あの人だいたい草刈機を持ってなかったから。農家じゃなければあまり草刈機はいらないよね。それに草刈機も、燃えるようなもんじゃない。草刈機をどうかされたっていったら、投げられたとか、刃を壊された、とかならまだわかるけど、草刈機のどこを燃やすんか」
「草刈機を燃やしたとかなんとか聞いたことあるじゃろ。だけどあれはわし、よう知らんのよ」
 そもそも草刈機の存在さえ怪しい有様なのである。

 河村二次男さんは日々、村で起こったワタルとのトラブルを、自分の『県民手帳』に書きつけていた。そこにはこんな記述があった。
「背負式の機械で田んぼに農薬を散布していたら犬がどうとか言っていた」
 これは2008年の出来事なので、冒頭陳述にあった『農薬散布トラブル』とみて間違いないだろう。除草剤ではなく農薬を散布した際に、ワタルが自分の犬を攻撃されていると思ったのではないか。
 一部の村人は河村さんについて「ワタルに色々言われるけえ、ちゅうて、田んぼも手放したんじゃけど、まだ田んぼをやりよるときは、よく農薬まく人じゃったんよ」と、もともと農薬を好んで使う主義だったと話した。
 事件当時取材に答えていた〝遠くの村人〟たちによる、郷集落でのいじめの話は、ワタルが以前にそうした被害を誰かに話したものが広まっているかのような印象を受けた。犬について文句を言った話は、郷の誰からも聞けなかった。いじめた相手にいじめの話を聞かせてくれと言ってもなかなか話してくれない。そういうことかと思っていたが「あの人がいじめていた」という耳打ちすらされないのである。
 それよりも、ワタルに対する具体的な〝いじめ〟の話が村人たちから出て来ないのと対照的に、周辺集落の誰もが知っていたのが、〝ワタルの父・友一が泥棒だった〟という話だった。

(続く)

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