差別という罪が一律に重すぎる問題
原則。
あらゆる差別は許されるべきではない。
(引用注:以上すべて、強調は引用者による。また『女性の権利』のキャンペーン名が原文では "UNiTE to Ed~" とあるが、リンク先にならいEndとした)
◆でもこれ、ただの美辞麗句では?
引用がいずれも差別ゼロを目指しているのに反して、悲しいことだが、現に差別はある。この点に異論はないだろう。
また、少人数の閉じたコミュニティ内ならまだしも、現代の開かれた社会から差別一切が根絶されることは、筆者には現実的に想像できない。
いずれにせよ、具体的な解決策は誰も持っていないのだ。ならば我々は、ひとまず当面、差別と共に生きてゆくことになる。
差別を許すのか?
もちろんそれは、幾らでも差別をして良いなんて意味ではない。
しかし一方で、再三繰り返すが、差別はある。その全てを拒絶/排除/断罪する社会が、本当に望ましいのだろうか。
ひとつ思考実験をしてみよう。
◆差別の仮定義(関連性と個別性から)
厳密な思考実験のために、ここでは次のように『差別』を定義した。あくまで仮なので不備はある。
〈ある人の扱いを決める際〉は、〈判断に相応しいその人自身の能力・性質・行為に基づいて〉行われるべきだ。そしてここでは〈そうでない扱いを差別と呼ぶ〉。
判断とその根拠とがきちんと関連しており、かつそれが集団ではなく個人の特性であることの2点を重視するモデル。
この定義は一般的な(国連的な?)ものと少々異なる。しかし被る部分は多い。
例示
次の2例が差別であることは明らかだ。
〈医学部への入学可否を決める〉にあたっては、ペーパーテストで〈知識や思考力〉を測られる。これは入学後の学業についていく為には妥当な指標だろう。しかし〈性別は合否判断に相応しい能力・性質ではない〉。ゆえに性別による点数操作や合否決定は差別と呼べる。
〈警察が逮捕するか否か〉は〈犯罪行為の有無〉に基づく判断だ。〈人種や肌の色はその人自身の能力・性質・行為ではない〉。単なる属性だ。ゆえにそれだけで逮捕するとしたらそれは差別だ。
続けて、同じ基準でいくと次の2例も『差別だ』となる。恐らく同意しがたく感じるだろう。本稿の差別の要件はゆるくて広い。
〈警察が注視するか否か〉は〈犯罪傾向や経験則〉に基づく判断だ。しかしそれでも、〈人種別の犯罪率などはその人自身の能力・性質・行為ではない〉。集団についての統計だ。ゆえにそれに基づいて注意を向けるだけでも差別ではある。
夜道などで〈他人を警戒するか否か〉は〈犯罪傾向や経験則〉に基づくべき判断だ。性犯罪の多くが男性によるものであっても、〈性別や統計はある特定の男性の能力・性質・行為ではない〉。ゆえにそれに基づく警戒も差別にあたる。
もちろん、ここでの定義において差別にあたるからといって、警察は怪しい人を注意しなければならないし、(主に)女性が警戒することも全く責めるつもりは無い。
定義の狙い
上記で言う差別は、『絶対にやってはならない最悪の罪』などではなく、『不当な扱いではあるが世の中に普通にあるもの』であり『完全に無くすことは極めて難しいもの』といった位置付けだ。
つまり上で確認した現実に則している。そのように定義を定めた。
怪しい人物への警戒は、それを差別と呼ぼうが呼ぶまいが必要だ。なくすことはできないし、もちろん(警戒に留まる限りは)罰せられるべきでもない。
これらの“差別”は許容される――国連の指針には反するが――、他の様々な人権と同じように、“被差別”側の受忍限度との折り合いが付くならば。
人生を左右する受験での差別など受け入れられない。偏見のみで逮捕されることももちろんだ。
しかし厳しい目線を向けられる程度のことなら、良い気分はしないにせよ、公共の安全と較べれば受忍すべきとも考えうる(もちろん出来ないと感じても良い)。
だから注目すべきは、差別か否かよりもむしろ、その扱いによってどんな被害が生じたか。
筆者自身の感じ方でいえば、夜道などで女性から逃げられるのは、心情的にはそこそこ傷つく。自分は何もしていないし何かするつもりも無かったのだから、不当な扱いだと感じもする。上での定義でいくなら“差別”だ。
が、受忍はできる。仕方のないことだと。
……ただしそれは、受けた被害が『逃げられてちょっと傷ついただけ』だから。同じ状況で、同じく女性の警戒心が原因だとしても、予防的な先制攻撃によって身体的被害を受けるなどすれば天秤の傾きは変わりうる。
個人によってどこまで許容するかはまちまちだが、無制限な受容は一般に不可能と言えよう。
◆思考実験
差別という概念を、〈受忍・許容されうる差別〉と〈そうではない差別〉に分けようというコンセプトは、国連の指針にもポリティカル・コレクトネスにもSDGsにも反するものだ。
だから『そんな曖昧な姿勢は到底受け入れられない』と感じる人も多いだろう。それは分かっている。
とすると、文字通りにあらゆる差別を許さないという姿勢が取りうる道は2つしかない。
広い定義のまま、その全てを許さない姿勢。
定義を狭めて、その全てを許さない姿勢。
その結果どうなるのか?
1. 広い定義で全てを許さない
この場合、警察の業務にも一般人の安全にも深刻な問題が生じる。
例えば近くで何らかの事件が起こり犯人の目撃情報があれば、警察はひとまず似たような外見の人物を容疑者候補のように扱うはずだ。
しかしそのような捜査は真犯人以外からすれば〈容姿などに基づく総体的な判断〉だ。ゆえに差別に該当する。差別は許されない。
もちろん、一般人が他人を警戒する例でも同様だ。
暗い夜道などの状況からリスクを感じたとしても、それは〈警戒された個人とは関係ない〉。ゆえに差別だ。差別は許されない。
犯罪者にとっては生きやすい社会になるかも知れないが。
国連もポリコレもSDGsも、こんな危なっかしい社会を望んでいるわけではないはずだ。
2. 狭い定義で全てを許さない
それを避けようと定義を狭めると、今度は人権が脅かされる。
上で仮に定めた関連性と個別性に基づく仮定義はそれなりに間口の広いもので、『それも差別になってしまうのか?』というような例も該当するのは上で触れた通りだ。
しかしそれでもなお、あらゆる差別を含んではいない。この定義に含まれない差別は存在しうる(後述)。
差別の定義を狭めるということは、『私達は差別された』という人達に『いいえ、それは差別ではありません』と告げる可能性を増すことになる。
これは極めて慎重さを要する。基本的に差別を訴えるのは弱者の側なのに、強者が差別を定義しては本末転倒だろう。だから冒頭に挙げた国連の各ページは“あらゆる差別”以上の細かな定義には踏み込んでいない。踏み込めないのだ。
なお、仮定義を採用した場合は『はい、差別ですね。ですが今後の対応はあなた達の受けた被害の大きさなどを検討して決めましょう』となる。
これも優しさには欠けるのだが、被害が大きければ差別側に改善を義務づけるという前提なら、『差別ではありません』よりはマシなはずだ。
仮定義の不備について
仮定義に欠けている要素として、例えば自己決定などが挙げられる。つまり関連性と個別性さえクリアしていれば当人の意思を軽んじることは差別に当たらないという定義だ。
他にも色々と穴はあるだろう。説明の都合で組み立てたものに過ぎず、全てをカバーするつもりは無いのだから。
本稿で最も述べたいのは、〈あらゆる差別を許さないって現実的に無理があるでしょ〉だ。
これは筆者の個人的見解ではなく客観的事実だと考えている――いや、犯罪天国や強者の支配を肯定するなら無理ではないのだが。
2番目を挙げるとすれば〈だから差別かどうかに拘らず被害の回復などを考えよう〉。これには筆者の好みが入っていて、唯一の解ではないと自覚している。
つまり、差別の定義については本稿の主題ではないので、軽くスルーして頂きたい。
◆まとめ
『あらゆる差別を許さない』は現実的に無理がある
だから『差別か否か』に拘るべきではない
被害の回復など、今後のことを考えよう
以上。
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