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幸福唯心教

人生の目的を何に置くのかというのは人によって異なる。

あなたの「人生の目的」はなんですか。ビジネスマンとして成功したい?金持ちになりたい?政治家になりたい?地元の名士になりたい?スポーツで頂点を勝ち取りたい?早期リタイアで悠々自適?不労所得で暮らしたい?学問を極めて世界を変える発明がしたい?

僕は子供の頃からモノへの執着があまりなく、周りの友達と比べても遊びが遅れていた。遊戯王カードは友達のあまりものを貰ってデッキを作って始めた。Nintendo64は買ってもらえなかった。ジャンプは興味なかった。エンタメへの感度も薄くて、ドラマなんて見なかった。音楽に関心が出たのは中学生くらいの頃。ただそれも、平成音楽番組全盛期だったからかも知れない。代わりに僕がやっていたのは「本を読む」ことであった。本の虫だ。しかも売れているとか有名なとか、そういう本ではなく、自分が没入できるものなら何でもよかった。結果的に親の趣味で司馬遼太郎を読んだり、小学校の図書室に置いてあった少年探偵シリーズは読んだ。本が良かったというより、自分の世界に閉じこもれるものであればなんでもよかったんだと思う。テレビは映像があって苦手だった。映画も同じだろう。身体を動かす遊びは好きだった。でもシンプルにスポーツが好きとかじゃなく、秘密基地を作ってその世界に入り込める方が好きだった。

お金や学歴への執着もあまりなかった。高校生の頃からバイトはしてたが、お金を稼ぎたいというより部活をやめて暇になったから、というのがきっかけだったし、高校選びは自宅から近くて制服がある共学という基準。大学選びも担任に勧められたからだし、浪人までして志望大学に入ったのも負けず嫌いだっただけ。

僕の人生の目的はなんなんだろう。どういう時に幸せを感じるのだろう。

30歳になって、彼我の意識差をより感じるようになってきた。お金を貯めて趣味に使う人、早々に結婚して家族を作る人、結婚してもう離婚もした人、仕事に全力な人。
僕は仕事は頑張るけど出世欲がとてもあるわけではないし、婚活頑張ることもせず、女性をとっかえひっかえしたいわけでもないし、住居や車にもお金をかけないし、高い腕時計を欲しいと思ったこともない。いや貰えるなら欲しいけど、そのために頑張りたいわけではない。モチベーションにならないのだ。

そう考えた時、僕自身はとても空虚というか、社会不適合なのだなって心底思った。子供の頃、本気で社会に興味なかったし、会社に興味なかったし、個人主義だった。場当たり的に生きてきて、いまなんだかんだいい生活できる余裕があるのは、ただ単に運が良くて周りが良かっただけだった。仕事はよく続いてる。けれど社会不適合な本質は変わらないんだなと思う。社会的に価値があるとされているものにあまり興味がないのが、とても中途半端に映る。

うーん、なんだろうな。僕の人生の目的というか、こうなったら幸福だというのは、なんなのだろう。

考えをnoteに書いている初期に向けてやると、30年生きてきてようやく落ち着く幸福論があった。「推し」だ。いや「推し」という言葉だと語弊があるが、結局は僕は「自分が好きな人を認め、承認され、一緒に生きていけること」が目的なんだ。お金というより物というより、心というかなんというか。僕の幸福は唯、心にあり。心が欲しい。心が欲しいんだ。

この表現に行きついて、何か色々なことが腑に落ちた気がした。高い車に興味がないことも、高い腕時計に興味がないことも、自分の心理的な関心が向いていないからだ。大学生の時の僕は、まあなんか中々女性関係が頭おかしかったが、色んな人の心が欲しいと暴走した結果ではあった。実際肉欲ではなかった。

未だに自分の空想、心象世界が重要なんだ。内面的なこと。信頼できる人に心を預けてもらって、僕も預けたいと思っている。推しに推されたいし、推しを推したい。共依存をクリーンにしたいんだと思う。境界が曖昧だ。そんなもの成り立つのか。いくら文学部でも入水自殺はしたくない。この世で幸せになりたい。


まともな恋愛、まともな信頼関係という「幻想」を持っていることには自覚的だし、大層後天的で夢物語だと思ってはいる。なんなら僕は二回、人生でそれを拒絶したと思う。ただ自分が幸福だと思える伴侶を見つけられれば、僕の人生はまた動き出すんじゃないかと、半ば本気で考えるくらいには、幸福唯心教に傾いている。

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