Evil になれ
Don't Be Evil
以前のGoogleの社訓で、「Evilにならない」というのがある。これまで、自分の価値観においては、それはある意味当然目指すべきところだと思っていた。しかし、先日のXデザイン学校の講評の中で、ちょっと違うのかもしれないなと思い始めた。この記事では、ビジネスを考える上での「悪」の意識について考えてみたい。
儲かるビジネスに「悪」は必要か?
持続可能なビジネスを考えるうえでは、「悪」の要素が必要なのではないかと最近感じる。(Googleのいうところのevilは、ここでは少しニュアンスが違うだろうけど)
決して極悪非道なビジネスをやろうと言ってるわけではない。しかし、自分の基本思考ロジックに、「悪」が足りないというのは大きな気づきだった。
前回のXデザイン学校で、「愛があると儲からない」「ぼろ儲けしたかったら、お天道様の下を堂々と歩けるようなことではダメ」「人は自己実現ではなく、射幸心とか他人を蹴落とすような事にお金を使う」といった有難いアドバイスを受けた。
過去の成功しているビジネスを考えてみる。例えばゲームを愛してやまない人は、ソシェゲのガチャでぼろ儲けしようという発想には至らないだろう。それでもソシャゲ好きはゲームにはまって楽しいのだろうし、運営側はぼろ儲け。しかしこれは私の価値観では「悪の道」だ。
競馬などの賭け事もそうで、胴元は必ず得をする、賭けた人は平均的には必ず損をする、悪魔の所業のようなビジネスだが、競馬ファンは楽しそうにしている。
これは全く根拠のない仮説だが、下図のようなイメージで捉えている。儲かるビジネスは、何かしら後ろめたい「悪」の側面を持つのではないか。
「悪」を分解してみる
と書いてはみたものの、世の中を正義と悪の軸だけで切り分けるのは、あまりにも乱暴であろう。仮に、下図のように2つの悪の軸を置いてみる。
前述の競馬であれば、「人々を楽しませるのは良いこと」という概念に対しては「正義」だが、「射幸心を煽って金を落とさせるのは後ろめたいこと」という概念に対しては「悪」だ。このバランス感が、新しい事業を考えるうえで必要なんじゃないかと感じる。
「悪」になれるか
一方で、そこそこ世の中に名の知れた「立派な企業」とか言われるところに勤めていると、つい「聖人君子」になりがちな気がする。あと、顧客への愛情・思い入れが強い場合も、同様だろう。
以前、社内の企画会議でAIを導入した自動化機材の話をしていた時、「そんなものを提供すると、雇用主は儲かるだろうけど、機材を使ってるオペレータが失業するじゃないか!俺はオペレータを愛してるんだ」という理由で反対された経験がある。気持ちはよく分かるのだが、そういう事ばかり言ってるから会社が傾くのではないかとも感じた。
愛は人を盲目にするのだろう。そして顧客に寄り添えば寄り添うほど、顧客を愛してしまいがちなのだろう。愛している本人はそれを自覚できないのが、問題をさらに厄介にする。
「悪」を前提にデザインする
したがって、儲かるビジネスを考えるうえでは、意図的に悪を盛り込んだデザインが必要なんじゃなかろうか。私なんかも根がいい人なんで(w)、悪いことを考えようと心掛けないと、思考がそっちに振れていかない。
これからは、マザーグースにちなんで「なにかひとつ悪いもの~♪」と歌いながらビジネスを考えることにしよう。
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