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”ガワ”を痛めると思うこと

こんばんは。チワです。
ただいま腰を痛めています。腰から足に痛みがいっています。もうこれで何度目かと言う腰椎椎間板ヘルニアと診断されていて、硬膜外ブロック注射も受けたんですが、すぐ効き目が切れてしまい、足の激痛に苛まれる毎日です。

身体に痛みがあると、どうしても自分の存在の中の外側について考えることが多くなってしまいます。何でこんなに身体弱いんだろう、とか、もっと痩せてたら違うんだろうなあとか、先天性の脊柱管狭窄がなかったらなあとか。
昔は自分の身体の中の腰の存在すら気にしたことなかったのになあとか。
親がもっと健康的な体に育ててくれればなとか、恨み言も思ってしまうこともあります。

いつもないものがあると、いまあるものに目が開きます。
音楽を聴きながら、横になってじっとして痛みに耐えていると、最初は身体のことを考えていました。
でもだんだん自分の心の悪さと良さについても考えが及んでいきます。
私はこんな姿だから、好感を持たれることも少なく、リアルの友達も少ないけれど、ネットの友達はそれなりに多くいます。
数少ないリアルの友達も、ネットの友達も、どっちの友達もみんな大切に思っていること。
私はどうしても親とか昔の恋人より今の友達について考えてしまうことが多いようです。

昨日Xで流れてきた言葉、私なりに言えば「悪口は価値観の共有の宣言だ」というもの。
友達と、共有できる話題の中でお互い嫌いだと思っていることや人について話が及ぶこともよくあります。
別に悪口ばかり話しているわけではもちろんありませんが、そういう話題になることもあります。
でもそういう時、暴かれているのは話題に登っている対象ではなく、話している自分たちの考え方の方なのだと気付かされました。

基本的に、私は私の考え方に自信を持っています。あと、いい人間だとも思っています。外側よりは中身に自信がある方です。
心を許しやすく人情的だとも思いますし、仲間の話を聞いて理解する能力もあるし、友達の問題を解決する助けになりたいといつもおもっています。

でも、たまにはそういう自分の中身に疑問を呈することも必要なのです。
分かってはいるものの、つい気付かずに傲慢になってしまうこともあるように思います。その場合、私は私に嫌悪感を抱きます。中身への自信もなくします。
そうなったら、あとは鬱の谷へ転がり落ちます。自己嫌悪から、誰かに憎まれている気がしたり、悪い人間になっているように思ったり、他者に責められているつもりになるのです。そこが私の1番解決したいところです。
ほどほどに自己嫌悪することが苦手です。自責のつもりが、自己嫌悪が進んで、他者に責められている気持ちになって辛くなることで、結局他責しているのです。

実のところ、私は他責的な人間です。こういってこの人はいい人だなと思う人が一体何人いるでしょう。もしそんなことを思ってくれる人がいるとしたら、その人こそほんとうのいい人でしょう。

私はいつも自分を呪っています。こんなふうに産まれなければ、育たなければ、学ばなければ。
あの人が私をみたあの目が辛かった、こんな見た目にならなければ、太らなければ、痩せられれば、痩せたとしても美しいかどうかわかりませんが、痩せれば美しいはずと思っている自己愛もあります。
バカにされたこと、まともに勉強してこなかったこと、夢を叶えた途端に脱落してしまったこと、いつでも異常に眠いこと、思いつくこと全部呪っています。
そうやって自分を呪うことで、かわいそうな自分を演出して、それをみる部外者を悪者にしています。
私は根源的に他責的な人間なのです。それを上手く隠したつもりになっていますが、みんなきっとそれを見抜いているでしょう。みんな同じく人生を生きているので、わかるのです。

なのに、こんな私に暖かく接してくれる友達や人がありがたくてありがたくて大好きです。とてもみんな大切です。
いつもありがとうございます。結局それが一番言いたかったことです。
ここまで読んでくれたあなたにも、ありがとうございました。

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