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名前のない関係

名前のない関係というものについて考えていた。

この世には名前のある関係がたくさんある。
仲がよく心を通わせる人同士は「友達」
血のつながった(つながってない時もある)一親等を「親子」
愛し合う人同士を「恋人」または契約を結べば「夫婦」
助け合うもの同士を「パートナー」
複数人になれば「仲間」

じゃあ推しとファンはどうだろう。そこには未だ名前がない。

名前がないものには自由がある。どう解釈しても良い、どうあっても良い、どう見られてもいい。
そういったものはやはりたくさんある。名前のついているものよりたくさん。数限りなく、というか数えられないほどそれらはスペクトラムであると思う。

では推しとファンに絞って考えるが、私のようなガチ恋もいるし適切な距離を持って楽しんでいる人もいる。周囲や推しに迷惑をかける人もいれば、お金をたくさんかけて推しを応援する人もいる。さりげなく推している人もいる。

その全ての“関係”に名前がない。それはとても自由でふくよかな、喜ばしいことだ。
その反面、寂しく、不確かで不安なことでもある。

どうあってもいい、は、どうなっても誰も責任をとらないということだ。

名前をつけてほしいという気持ちには、恐怖がある。わからないものに対しての恐怖。
人間は名前のついていないものに対して恐怖や不安を覚える。だから名前をつけて安心する。
ファンネームがあろうとなかろうと、それは関係への名前ではない。

推しとファンの間、アイドルとファンの間、バンドマンやお笑い芸人、作家や漫画家、などなどとファンの間に名前がないのはどうしてなのか。
名前がついたらついたで息苦しく感じるのかもしれない。それを肌で感じているから誰も名前をつけないのか。

名前などない方が尊いのかもしれない。
私が知らないだけで、もう名前があったらすみません。


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