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境界線からグラデーションへ

先日のシュタイナーのおへや、
"境界線" がお話のテーマだった。

子に気を取られてほとんど素通りだったけれど、
境界線を「入る前にひと息つく」とするのは新鮮だった、
自分はただ結界のようにとらえていたから。


相手に踏み込まない、ことは尊重でもやさしさでもなくて、
踏み込んで拒絶されることへの根深い怖れ、自分を含めた人間への不信感、そしてそっくりそのまま自分もまた踏み込まれたくないという拒絶の裏返しだった若い頃。

遠い異国やアングラな世界に身を投じても平気だったのは勇敢なんじゃなく、自分で作った檻を持ち歩いていて、そこに逃げ込んでいるだけだったからで。

歳を重ねて境界線という意識が希薄になりグラデーションだと感じるようになるにつれて、檻を持ち歩く必要は少なくなり、この世は壮大なワンダーランドになった。


ところで、境界線っていつからあるものかな?
と出会ってすぐ無邪気に戯れる幼い子ども達をみていると思う。

とりわけ子はどこの公園に行っても知ってる知らない関係なく、とにかく誰かいたら「お友達と遊んでくるー!!」と当然のようにいつも1人ですっ飛んでいくタイプ。

大人は、というか自分は、迷惑じゃないかな?とか、気まずくなったらやだなとかその場の空気を読んでラクな方に流されがちだけど、彼女は一切モジモジしなくて。

「一緒に遊びたい!!」という気持ちに曇りなくど直球で、矢のようにストレートにすっ飛んでいく姿は、潔く勇ましくカッコええなー笑と思う。

秋頃からは「一緒に遊ぼー!!」だけでなく、「一緒に遊んでいい?」「一緒に遊びたいの」やら大人しそうな中学生がいたら静かに隣に座ったりなど、相手にトーンを合わせている様子もみえて。かわされてキョトンとなっている時もあるけれど、大概は相手も心を開いてくれる。

昔、数年間教壇に立っていた20代の頃、卒業生へ贈る文章に寺山修司の言葉を引用して、「潔い人生を歩んでいってください」と記したことをふと思い出した。

子は生まれながら潔くて、まぶしい。
その正直さと自ら好意を差し出せる勇気を損なわず育ってくれたら。きっと温かく豊かな人生をタフに歩んでいけるよ。

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