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【DRAGON QUEST(ドラゴンクエスト) YOUR STORY 感想】フィクションの力を信じること

オススメ度 ★★☆☆☆

1.シミュレーション仮説

 我々の生きる現実が、実はVR機器などによる仮想現実だとしたら。それがシミュレーション仮説という思考実験の一つだ。光速に近づくにつれ時間経過が鈍くなるのはCPU負荷によるラグであり、量子もつれは「そういうルール」として規定されているからだというものだ。この仮説は二つの危険な点もある。一つは、もしそうだとしてこの説を推し進めれば、現実の更に外界の存在(つまり神)が気づいて電源を引っこ抜く点。もう一つは、この現実が仮想だと思い込んだ者が道徳を脱ぎ捨て獣へ戻る点。

 想像して欲しい。もし今まで自分の歩んできた軌跡が全て何者かに仕組まれたプログラム上のものであり、愛する者や信じた物のポリゴンが剥げて、「全て仮想のものだよ?」と示された上で、それでも隣りにいる人を愛せるか? 自分が生きた世界を否定されて尚、自分の世界が正しいと信じきれるだろうか。我々は現実が現実であるという担保の上で生きている。この大前提を覆すには、覆すための約束事が存在する。フィクションとはそういう幾つものルールが(受け手には大変解り辛いが)存在している。

 フィクションが持つ力は偉大だ。それは想像力という薪をメッセージに焚べて走る蒸気機関車であり、緻密な積み重ねを経て「現実」を生きる我々の人生を彩るものだ。無味乾燥のこの世界との糾える縄として機能し、人を動かす稀有な発明品なのだ。フィクションの力を信じて創り手は腕を振るい、受け手は真摯にその力の拠り所を自身の中に見出す。原作が存在する上で創り出した作品であれば尚更、原作の持つ魅力をそれこそ骨の一片まで残さず余すことなく味わい尽くし理解した上で取り掛かるのが寛容だろう。

 さて、今作では山崎貴監督がどこまでフィクションの力を信じたのか。

2.逆説的に露呈する「大人になれ」発言の「バグ」

 劇中、中盤~終盤直前までの感想を素直に言えば、そこそこ良い出来であったことは間違いない。無論、この上映時間の間に原作をつぶさに再現することは不可能なので、「そこそこ」上手く纏められたのではないか。序盤のパパス死亡場面までを10分で飛ばしたり、ビアンカとの出会いをブオーン討伐に乗っけたりと、いわゆる「原作ありきの劇場版作品での編集手法」としてはまぁ良くあることで、実際ストレスを大きく感じることは無かった。白組のクオリティは相変わらず素晴らしく、容姿がかなり変わってしまったビアンカだが素直にかわいいと思えた。

 論点として挙げられるミルドラースの部分だが、問題は表面上ではなくかなり深奥、根深いものがあると感じた。順番に説明する。まず、ミルドラース(で良いのか?)の「大人になれ」という発言である。ここでいう「大人」とは、フィクションに浸からず現実を見なさい、という大意で良いはずだ。それに対し主人公は、それでも自分が信じる世界を否定させない、という思い(加えて非常に唐突に判明する山ちゃんスライムの機能)によってコンピューターウイルスとしてのミルドラースに打ち勝つ。勿論「大人になれ」という発言は主人公の思いを引き出すフックとなるのだが、それは逆説的に「大人になれ」と問い掛ける存在も現実世界に数多存在することの証明になる。

 フィクションを楽しむことを否定する人間がわざわざウイルスなぞ作成してVRプレイヤーに嫌がらせをするとは想像し難いが、それはそれ。むしろ問題は、この両者の言い分をメッセージ性として機能させたいという創り手の手法が成功しているか否かである。我々はドラゴンクエストVという作品がフィクションであることを重々承知した上で当時プレイし、今映画を観ている。電車の中で漫画を読んでいるサラリーマンに「お前サラリーマンなのに漫画観て恥ずかしくねぇの?」と忠告する老害と似たようなものである。漫画を読んでいる人は「フィクションを読んでいる」ことを知っており、老害は「いい年こいてフィクションかよ」と思っているものと同じである。問題は映画において、ミルドラース(老害側)の発言がサラリーマンに向けられたものではなく、それを観ている観客(同じ電車に乗り合わせ場面を見ている人)に向けられたものだということだ。

3.逆説的に想起されるストーリー編集の「バグ」

 ここで更に面倒くさいのは、フィクションだと露呈した後にそのフィクションを愛せるのかという前述の問題になる。ゲームはプレイヤーという第三者の目を通じてフィクションの世界を観る。映画も同じだ。つまり主人公はまだしも、その世界を観せられている側がその上で仮想を愛せるのかという部分だ。フィクションだと分かった上で、それでもその世界を味わおうとした観客側が、そのポリゴンを全て外され再構築した後に残る虚無感をもってして「それでも愛せる?ん?」と言われても、そこにあるのはデータでしかない。結果、この物語において真の勝者はミルドラースであり、強制敗北イベントとして観客が負けることになる。

 それが二つ目の問題なのだ。前述のように、途中まではそこそこ楽しめた(それは原作の素晴らしさがあってこそという大前提を踏まえた上で)ことが、逆にこの作品の価値を下げてしまっている点だ。ある程度きちんと整えられた「フィクション」であったからこそ、それを取っ払った後では逆説的に「今までのエモーションは虚空だった」と植え付けられて劇場の明かりが点く。フィクションだと重々承知した上で仮想現実オチを付ける劇薬にはルールが存在する。それは最初に「これはフィクションの中のフィクションである」と明記することだ。レディ・プレーヤー・ワンやジュマンジ ウェルカム・トゥ・ジャングルが駄作だったか? 否。それを明記した上で面白くすることは幾らでも可能であり、それが出来ないからと最後にドンデン返すのは制作者側の負けである。

 RPGゲームを原作とする、という概念は当然「ゲーム内のストーリーを原作とする」意味であるはずだが、『STAND BY ME ドラえもん』の頃からどうも監督はその意図を違えているように感じる。感動する場面のパッチワークをしても、観客に響くことは(普通は)ない。観客の心に訴えかけるのは、ストーリーを通して積み上げられたエモーションである。今作では中盤まで割とパッチワークでなく巧みに編集していたが故に、積み上げたものを全部ぶっ壊すというある意味乱暴な手法で『STAND BY ME ドラえもん』の新境地を開拓した。新たな虚無の開拓技術を磨かれた後に迫る東京オリンピックのオープニングが大変楽しみで仕方がない。

4.本作の価値

 以上の理由から、本作は「子供と楽しめるファミリームービー」の皮を被ったゲマであり、一方で本作を心から楽しめる人は無論『STAND BY ME ドラえもん』や『BALLAD 名もなき恋のうた』を楽しめる人であるはずだ。ミルドラースと主人公のバトルを見せつけられた我々は「この究極の独り相撲は2008年あたりにやってくれればそれなりに観れたんじゃないかな」と思うだろう。なぜなら、その辺りまでは仮想現実的技術が庶民に近くなることもなく、劇中での「現実」もフィクションの一つとして消化できた時代だからだ。だから、2019年にこのメッセージ性を携えられても、監督は骨の髄まで原作を理解した上で制作したのかな、という疑問が浮かぶだけである。

 余談であるが、本作は漫画家の冬坂あゆる氏と鑑賞した。二人とも場内の明かりが点いた時、碇ゲンドウの例のポーズをしていた。そんな氏の『不死の楽園-13人の異能-』は以下のリンクからどうぞ。

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