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【劇場版仮面ライダージオウ Over Quartzer 感想】過去の意思は嘘では欺けない。誰の為か 何の為の夢か?

オススメ度 ★★★★★

1.「お前たちの平成って、醜くないか?」

 時代は常に未来から過去への視線という形状を取る。それは遡及の概念にライドし我々が今この瞬間を見失わないようにする重要な能力であると共に、常に歴史学的なパラドクスを内包する。いわば物語られた過去である。過去とは不変のもののようで、むしろ常に変化し続けるものだ。なぜなら、その過去を見る我々の道徳や常識といったライフレベル(価値観)により過去の性質も常に左右され続けるからだ。

 常磐ソウゴが織田信長へのアプローチで、この部分に言及していることが本作品の中で非常に大きな部分になる。個人差はあるにせよ、我々は過去に思いを馳せるとき、この大前提を忘れがちである(歴史の教科書なぞ、今の中学生・高校生が使用しているものを是非ご覧頂きたい。今30代後半の人が読んだらド肝を抜かれること必至である)。タイムトラベルの要素を扱う作品で、しかも主人公が、この前提をしっかり理解していることに意味がある。この仮面ライダージオウという特撮ドラマにおいては。

 ロケ地である保渡田古墳群も意図的なものだろう。ISSA(役名を書くと紛らわしいので、本記事ではISSAとする)らQuartzerの一団が鎮座坐す場所、つまり太冠の義が行われるのが何故あの場所なのか。過去を具現化したものであり、かつ死者を弔う場所として、これ以上のベストマッチなロケ地は無いだろう(加えてCGも合わせやすい)。なぜ死者を弔う場所が必要なのかは後述するが、ストーリー上の意義としても常磐ソウゴの物語の最果ての場所としてもってこいである。

 我々が過去を意識するとき、過去もまた未来を意識している。時間の流れはエヴェレットの多世界解釈を用いない限りは限りなく一定であるが、概念はその世界線を易易と超える。令和時代に足を踏み入れた我々は、すでに平成という時代を過去のものとして定義しつつあるが、平成を生きていた頃の我々は次代への想像をしていた。一方で今を生きる我々は好き勝手に過去を創造していく。どちらも「意識」という概念が時を超えて、互いに干渉をし合う。「今」側を生きる我々はこうして辿り着くのだ。「平成って、醜くないか?」と。

2.コンテンツへの答えと、時代への答え

 前作の『仮面ライダー平成ジェネレーションズ FOREVER』で物語にライドされた製作者側のメッセージは「フィクションとは、それを信じる者にこそ勇気と希望を与える」というものだった。その普遍的なメッセージは、仮面ライダーというコンテンツが持つ意義のFinal Answerであった。鑑賞した時こそ「こんな飛び道具出して平気なのか?」と思ったものだが、何のことはない、今回の劇場版ではその飛び道具を下敷きにした製作者側の更なる言及をライドしてきたのだ。

 生きることは、決して美しいことではない。なぜなら、我々は何かの物語のシナリオに則って動いているわけではないからだ。幾つもの分岐を幾度となく越え、時に論理的でも倫理的でもない選択や行動をし、そのたびに言い訳や後悔をし、醜く生きていく。そうして辿り着いた先から過去を振り返り「ああ、それでもいい人生だった」と思えるように、悔いだけはしたくないと拙くも切なる願いを込めて、七転び八起きしながら這いずり回る、それが生きるということである。それを常磐ソウゴは、劇中最後に残されたQuartzerたち(というか現DA PUMPの皆様)に説く。物語の主人公がそれを説くというFatal Answerによって決着は付けられるのだ。

 当然、この言葉は制作者側のメッセージでもある。平成仮面ライダーは一年ごとに世界観も設定も変化するし、都合により作品のストーリー(内側)や携わる人々(外側)も一筋縄ではいかなかったろう。響鬼や電王などは正にこの例である。よく言えば一年ごとに新たな挑戦ができるとも言えるが、そこにかかる資本もスタッフも膨大であり、責任や大人の事情も数多く絡んだだろう。内情は内情としても、視聴者はそこに文句を投げつけてきた。何せ一年ぶっ通しのドラマ制作である、視聴者もある意味では本気で食いつき、制作スタッフも本気で一年を這いずり回る、それを20回も繰り返したからこそ、本作のメッセージ性は異常な熱量を内包する。それは人生であっても、平成仮面ライダーというフィクションを作り上げてきた過程であっても、同じなのだと。

 歪で醜いのは、その瞬間瞬間を必死で生きた証であるという常磐ソウゴの一言は、ストーリー上の意図よりも多角的な、メタ的な制作者側のメッセージに他ならない。それを引き出すのは今回の劇場版の黒幕であるISSAの行動理由であるからこそ、本能的に「あっ、これは小煩い視聴者を意図しているな」と捉える人も多かっただろう。しかし、小煩い視聴者では「平成をぶっ壊ーす!」と行動には出れない。一方ISSAは圧倒的な力で彼の願いを成就させようとする。ISSAらQuartzerは、平成仮面ライダーというコンテンツに対する視聴者代表などではなく、もっと大局的なメタファーがあると感じたのだ。

3.誰の為か 何の為の夢か?

 常磐ソウゴがオーマフォームへと覚醒するシーンでは、ソウゴが「なぜ王様になろうとしたのか」という物語上本来序盤で語られるべき、そして実は核心であった部分にフォーカスがあたる。ネット上で散々語られているソウゴ2週目説などは大変興味深いし結構好きなのだが、本記事ではその部分は横に置く(タイムトラベル系の解説は実に難しい)。彼は別にスウォルツ氏に入れ知恵をされたからでも、ましてやISSAに仕組まれたからでもなく、非常にシンプルに「困っている人=民(この表現よ)を救うために力を得る」ことに端を発している。それが無力な幼少期に培われた夢であれば尚更、力という曖昧な概念が王様にリンクしたのも頷けなくもない。

 「生きること」とは、その過程で夢や目標といった「未来への希望」を無意識的に包含する。そして希望は常に朧げなもので、成長するに従い現実の概念を取り入れながら明確化し、また矮小化する。一般庶民は前述の七転び八起きによって現実の概念を取り入れるからだ。だから高校3年生のソウゴが王様になるという夢を語っても、それを本気にする他人はいない。一方、物語の最終章では、あのゲイツが「俺たちの王に続け!(このシーンも前半のギャグパートに見せかけた長篠の戦いとリンクしているから恐ろしい)」と叫ぶまでに至る。

 常磐ソウゴの「生きること」を利用し、平成を無かったことにするQuartzerは何者だったのか。今を生きる我々の一人ひとりに多彩な当てはめ方ができる存在。平成の終わり方に納得ができず、その力さえあれば再度昭和の終わりからリスポーンしたい人。その時代を愛しているからこそ、歪んだ愛で「より良いものにしたい」と願う人。平成に取り残された人。「生きること=時間の流れに従い、未来を目指す者」を説く主人公に対し、「やり直すこと=時間を遡及し、過去に囚われた者」としてのISSA。囚われた者といえば例の人であり、ギャグシーンに見えてしまう例の人のセリフに明確な答えがある。

 仮面ライダーとして選ばれたのであれば、その使命を果たす責任がある。常磐ソウゴの責任は、よりマクロ的に見れば「生きること」そのものである。生きることは夢や目標、未来への希望を包含するのだから。ストーリー上の存在意義としても、鑑賞者への、現実側にいる我々へのメッセージとしても、歪で醜く生き、互いに生き合うことが使命なのだ。例え結果として個性を尊重する時代=つまり歪で醜い人生同士が不協和音を生み出しても、それが当たり前で当然なのだ。それが時代なのだ。王様?大いに結構じゃないか。現に彼は王様になったのだ。

 過去に対し文句を言って変わるわけがない。変えられるのは未来だけであり、それは今この瞬間である。であれば、エンジョイしなきゃもったいない、だって人生は一回だから。誰の為の夢か、他でもない自分自身の為の夢だ。何の為の夢か、他でもない生きるための夢だ。その決意が元来持っていたソウゴの意思と結合して、オーマジオウライドウォッチへと姿を変える。未来の自分が過去の自分へと託した物と、未来を諦め過去をリスタートしたい者、その決着は正に平成を打ち破り次世代へと繋がるのである(それをあんな視覚に訴える手法で使うとは思っていなかった)

4.本作の価値

 本作は『仮面ライダー平成ジェネレーションズ FOREVER』とセットで鑑賞することで、更にメッセージ性を増す。しかし同時に、この瞬間しか味わえないライブ感がある。令和へと時代が繋がってしまったこの2019年中には作品にライドする必要がある作品なのだ。また夏、つまりお盆に観ると一層意義に深みが増すかもしれない。死者を弔うことは、過去に思いを馳せることだ。物語られた過去において、しかし必死に生きたであろう人を彼岸から迎え祀り、またあるべき過去へ戻すという「盆」。過去と化した平成への手向けの花として、どんなミラクルも起き放題なこの作品には、平成と令和を確かに繋げるに値する、大変に意義があるメッセージが詰まっているのだから。

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