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【シン•エヴァンゲリオン劇場版:|| 感想】愛が届く可能性のエネルゲイア、もしくは25年のシュワルツシルト半径を超えた先に待つ世界から

繰り返しの物語

 エヴァンゲリオン旧劇場版(Air/まごころを君に 以下EOEで統一)で、一度は終劇を迎えた、庵野秀明監督の代表作品。
 主題に当たるものは様々だが、AT(アブソリュート•テラー)フィールド、つまり心の壁が意味する所は、受け入れ難いことも多い他者の存在が無ければ人は人足りえないということ。否が応でも認め、一歩を踏み出すべきだというメッセージは間違いなく、1997年に提示された。
 それをredo、やり直すということの意義。やり直さなければならないなら、そこにはかつて描くことが出来なかった何かがあったからだ。原因はどうあれ(納期や技術、資金、体力その他様々)、かつて描けなかったものがあったのだろうか。もしくは「かつてには『描けなかったモノ』に辿り着いたから(辿り着く可能性が見えたから)」redoという手法を用いて、あの世界に向き合うことになったのか。そして誰が、向き合わなければならなくなったのか。それは監督でありスタッフであり、何よりも総計25年ものシュワルツシルト半径に閉じ込められた、かつてのチルドレンたちである。結果として監督は圧倒的重力の暴風域から本当に抜け出すことに成功した。

 この作品を語る際に、なぜか誰もが自身の半生を「オーバーラップ」させてしまう現象がある。25年の歴史がある作品であるから当然であり、その歴史の最初期に触れた経験がある人であれば、その歴史の終わりに自身が「どう生きて来たのか」「受け取り手としてどのような心境の変化があったのか」に注釈を入れたくなるのは必然である、と言っていい。
 私は非常に贅沢な体験を頂いた。
 新世紀エヴァンゲリオンなるアニメを見たのは、まだ幼少期の夕方だった。深夜放送の際に再度触れた。EOEは親に内緒でこっそり見にいった。終劇を迎え、当然理解など出来ないまま成長した。三度、テレビアニメ版からEOEを見たのは高校生の時だったはずだ。あの時には周囲の仲間と語りあうことも、ネットという新しいツールに触れることもできるようになり、EOEの主張についても荒削りながら思いを馳せるようになった。大学生になり、新劇場版の封切の際は、何だか単なるリメイク感がして、それでも序を見に行った。破は計3度見た。Qは後述するが、心の準備と理解が足りないまま座席に着いて、そうして小学生の時を思い出した。
 今、なんやかんやで結婚し子供を授かり、そしてシン•エヴァンゲリオンを観た。
 既に鑑賞した諸氏なら、この体験の意味を分かってくれるかと思う。
 私を構成する成分の中には間違いなく新世紀エヴァンゲリオンは存在し、また新劇場版も新たに寄り添い始めた。その度合いは、いわゆる歴戦のオタクたる諸先輩型には程遠いが、それでも、当時の「オタクと周囲にバレたら最悪殺される可能性すらある」空気の中で、そうした作品を隠れながら見続け、考察し、語り合う儀礼には、末席ながら参加した経験があった。
 あの日の自分の目線と、今の自分の目線があって、初めてこの作品に向き合うことができた。そんな、ありふれた何処にでもいるちっぽけな自分と重ねるべくもないが(それは無関係という意味だ)、TV版を経て、EOEを反芻し、Qで再度沈み込んだ監督でなければ辿り着けなかった場所。全ての経験は無駄ではなく、ここに辿り着くために必要なデュナミスであった。全ては必然であった。人が人として「生きること」を選択し続けるために無くてはならない「繰り返し」であり「破壊と再生」であり、「怖くても一歩を踏み出す勇気」であり、そして何より「愛」と「人間賛歌(それは勇気の賛歌である)」という人間の単純かつ重厚な根源に触れるための道程であった。

全ての終わりに愛があるなら

 本作品群は(ゲームや一部スピンオフは除く)、一貫した主張を別の角度から捉え続け、表現し続けてきた。SFという服を着てはいるが、一貫して「人と人との繋がり」を表現し続けてきた。だからゼーレは人類補完計画を求め、碇ゲンドウはTV版から失った人を追い求め、チルドレン各人は評価と承認を求め続けた。ゼーレはTV版では人類の新たな進化のために人と人との境界線を消し去り一つの完全なる生命体として人類を新たなステージへと導きたいし、碇ゲンドウはそれを利用することで最愛の人への邂逅に縋る。その過程でシンジは父を始めとした周囲の人との軋轢に揉まれ、レイは自身の存在意義が周囲との関係で作られることを知り、アスカは努力と虚勢によりアチーブメントを得る術に固執した。それは悲劇的な結末を迎えたようで、しかしシンジの最後の望みは叶ったとも言えた。
 そこで最初の問題に戻る。「人と人との繋がり」とは何なのか。TV版で描かれたそれがメッセージとして成就したとは言えなかった理由には、ひたすらそれを「求め続けた」ところに原因がある。決して子供だからとは言い切れない、大人であってもそれは否めないからだ。「涙で救えるのは自分自身だけ」という言葉で示されている通り、自身の内側に答えはなく、他者の存在を求めるという形でたどり着くのは、あの海岸でしかなかった。他者を「なぜ」求めたのかの点に視点を当てると、EOEとシン・エヴァの違いが浮かぶように思えた。
 なぜ登場人物たちは他者を求めたのか。他者に自身の存在を写すことを主題とするか、自身の存在を持って他者に歩み寄るのか。マクロとして見れば行動原理は似たようなものであるかもしれない、だが構成する要素は全く異なる。人は愛を紡ぎながら歴史を作る。人と人の繋がりに必要なものは愛である。愛とは、他者とのコミュニケーションだとか、相互理解だとかいう難しいものではないと思う。
 愛とは、他者に寄り添おうとする意思だと考えることができる。それは自分から他人へのベクトルでなければならない。今作では、その意思を確かに感じ取ることができた。シンジからだけではない。ミサトさんから、加地さんから、そして旧友たちから、レイ(仮称)から、アスカから、マリから、形や動機は違っても、その意思の結実が、この結末にたどり着くために必要なファクターだ。

 絶望しても腹は減る、人はなぜ繋がろうとする理由、その意義を再確認すること。なぜ人は言葉を使うのか、なぜ人は労働するのか、その意義を気づかせること。この要素をシンジの再起と並行して描写しつつ、彼にとって失われた14年の重みと責任、また人間関係の変化(置いて行かれた失意という意味では、同窓会に行きたくない心理に近いだろうか)、ここまでが、あの「のほほんとした村パート」に含まれている。エヴァっぽくないという意見もあるだろうが、実際には凄まじい情報量だから、お客様としてでなく作品の受け取り手として齧り付いていた人ほど、あのパートで脳が疲れた人もいるかもしれない。
 残された者と死に行く者、シンジの心境の変化と決意をヴィレの準備シーンで描きつつ、村パートに引き続きQの答え合わせも描く。アスカが怒っていた理由と先に大人になったという遺言を残し去っていくシーンは、白無垢のプラグスーツと混じって終焉への階段を上がっていくようで、観客は焦燥感と喪失感と、しかし高揚感を同時に味わうかもしれない。
 惑星大戦争のテーマ(激突!轟天対大魔鑑)で艦隊戦、かと思いきや鷺巣さんのバリバリイカした曲に乗っての2号機と8号機の決死のダイブ、ここは白眉と言ってもいいブチ上がり方で、いやが上にもテンションMAXである。ここまでは、作品の世界のストーリーラインとして凄まじく緻密に計算されている。
 そして物語は核心へと繋がる。子供による父殺しをミサトさんの口から発言させた点には、この作品特有の信頼のされなさ(いい意味で)に向かわないようにするための明言である。スターウォーズはバジェットゆえに日和った面も否めない。では、エヴァはどうだったのだろうか。

銀幕の彼岸へ突きつけた熱いパトスで

 汎用人型決戦兵器人造人間エヴァンゲリオンが何でホリゾントにぶつかるのか。東宝第8スタジオに出るのか。ウルトラマンAの裏宇宙の名を持ったイメージの世界で、いや違う、着ぐるみが干されプレステコントローラで取り付けられた(それは操作に便利だから)カメラが見守るセットの上で、世界の命運をかけた壮絶なる親子喧嘩が行われるのか。舐めてはいけない、四半世紀エヴァンゲリオンだ。文脈を理解したけりゃスタッフのフィルモグラフィを観ればいい。GA●NAXの歴史、カラー設立の理由を知ればいい。アオイホノオを読めばいい(ドラマ版もいい)。知ることは簡単だ、ここはネットだ、検索すればいくらでも情報は出る。ここはかなりの力技であると同時に、しかし大胆な計算によって構成されたトランス必死の最終決戦である。ストーリーだけを追い求めるお客様にはかつてEOEで魘されたかつてのチルドレンたちの追体験の一部を、そしてその体験をかつてした者たちにはスタッフや受け取り手たち人々が積み重ねた歴史の重みを。いくつものエモーションを滅茶苦茶に(それはあまりに精密に)詰め込みつつ、言葉で説明せずあんな映像でブチ込んだなんて。劇場では、なんかこう、ぐうって声が本当に漏れたよ。感動なのか何なのかわからない声だよ。
 寄り添おうとする行為をすることで、何重にもエモーションが加速するシーン。そして立て続けに行われる親子の「コミュニケーション」と、ダレさせないままに話は加速していく。ゲンドウが人類補完計画に携わる経緯はTV版と大差ないが、問題はそれがゲンドウの口から語られているという点だ。邦画あるあるのTOP3に入るだろう、心情を言葉で表現するゲンナリシーンという声もあるだろうが、私は不快に思わなかった。観終わった後に考え、一つ結論を得た。これは、推理小説やサスペンス劇場で行われる犯人独白のシーンなのだと。答え合わせなのだ。犯人しか知り得ない動機、経緯、それを犯人本人から語らせなければ答え合わせはできない。ベラベラと喋るのは必然であり、25年間も振り回され続けてきた者への、明確な答えの提示。これは解決編であり、最終章なのだから、その様式美に従えば、このシーンは非常に合理的であると言わざるを得ない。
 補完計画中の情景は明らかにEOEと対比させるように作られており、しかし不気味さをしっかり保っている。完成度を高めようと思えばどこまでも追及できるはずのCGを、誰がどう見ても「おかしい」と捉えられるよう描写している。精神世界がやがて辿り着く、あの在来線チックなカウンセリングルームに、ついにゲンドウがスタンバイする。彼もまた、神になろうがATフィールドから逃れられない。それは息子に対して完璧に作用し、逆に言えばその息子でしか彼に作用することはできない。返却されたS-DATによって、ここまでそのアイテムが生き延びてきた意味がついに発揮され、ゲンドウはユイを息子に見た。
 正直ここで心の中で泣いた。ゲンドウがついに、あの日置き去りにした息子を抱きしめ、自らに向き合い、寄り添うことの大切さを再確認し、救われたことに、25年が結実したと感じてしまったからかもしれない。かつては息子側の年齢として、今は父側として、あの日々の青春が思い出に変化する音を感じた。鑑賞者が自分の過去を抱きしめ、認めることができるよう誘導されているといえばそれまでだが、それはトイ・ストーリー3でも同様の手法が使われている。誰かを求めることは即ち傷つくことだという真理とセカイ系とまで言われたあのミクロシチュエーション(それはある意味、ヱヴァ破の結末と同じ)が、大人になったあなたとゲンドウにオーバーラップし、息子がそれを超えていく。
 ピアノと知識が好きな父、ゲンドウ。なぜピアノなのか。別に楽器なら何でもよさそうなものだが、ここはピアノである必要があった。なぜならQでピアノが出てきているからだ。ピアノを弾いたのはカヲルだ。カヲルはシンジの幸せを願うことでその呪縛へ捕らわれた稀有な存在だ。だからシンジを助け導き、寄り添おうとした者だ。よって渚指令なのだ。渚カヲルは心理面として、碇ゲンドウの反面でなければならないから、ゲンドウが物語を去った後、組織の頂点に立つのはもう片方であるカヲルでなければならない。だからゲンドウが乗り込んだ13号機が精神世界で息子を待つ姿勢は、かつての畔でシンジを待つカヲルと同じでなければならない。
 アスカを、レイを、カヲルを、つまり運命を仕組まれた子供たちを、エヴァの呪縛から救い、解放する儀式もまた、EOEのような精神世界で行われつつ、それは明らかにベクトルと意味が異なるよう意図的に描かれている。アスカは一足先に大人になった者として、彼女を導いてくれる者のところへ送り届け、レイは自身の生きたいように生きるよう指し示し、カヲルには幸せの形と彼の仕組まれた途方もない運命からの解放を手助けし。それらは全て、シンジの犠牲というツールによって導かれる。
 無論、そんな自己犠牲を母が許すはずがない。だから、EOEのように母は息子を解放する。しかし、今回は母だけではない。父もそこに加わることで、25年のカタルシスと、シンジが得た答えが提示されるのだ。他者へ寄り添おうとした勇気が、シンジをリアリティとしての大人へと成長させ、マリをあの浜辺へと呼び込んだとすれば、ここまでの計算がご都合主義で書かれたと言われても仕方がない。なぜなら、ストーリーが弾き出した計算が完璧であるからだ。全ての終わりに愛があるなら、きっと鑑賞者の心に伝えたいものが届くと信じているから、監督はこの結末を選んだのだろう。

もしも願い一つだけ叶うなら

 メッセージ性とは全ての行動の中に必ず潜むコミュニケーションの残滓であり、我々は意識的・無意識的にそれを感じたり無視したりして生きている。だから全ての行動は他の誰かに波及し、影響し、人の歴史を作る。そこには幾ばくかの愛を紡ぎながら、歴史を作る。シンジはその影響を求め、一見他者を求めつつも、あの海岸に残ったのはアスカという創作者の一部であったから、これは相当なビターハッピーエンドであると言えなくもない。
 宇部新川駅でシンジを迎えに来た者はマリでなくてはならない。外部の者として創作されたマリでなければ、一歩先には進めない。逆に言えば、真の意味で我々のマイナス宇宙から離れるべきシュワルツシルト半径を計算していたからこそ、このEDになったのではないだろうか。彼女が安野モヨコ先生であるという意見も当然あるが、正直なところそこまで単純な図式かどうかは疑っている。ANIMAの世界線や夏色のエデンの中で登場してはいるが、それは庵野秀明の手から外れた部分であり、逆に正史的立ち位置である地上波本編にはいなかったのだから、「新世紀エヴァンゲリオン」の外部のメタファーとして見ても矛盾は少ないだろう。
 地上波版~EOEまでの、あの尖ったエネルギッシュな作風やメッセージ性も大好きではある。だが、今この時代に必要なものは「大丈夫だ、その一歩を踏み出せ」と、支えながら激励するような、それこそ今後の期待と不安に圧し潰されそうな生徒に向け言葉を向ける卒業式のような門出のように感じられた。学生として過ごした(それが25年ものとは長すぎるが)日々の充実度、悩み、苦しみ、もがき、工夫し、たとえ結果がどうであれ着実に歩み続けた者に向けた応援のようなもの。逆に言えば、愛がなくお客様として銀幕に向かった時、自らの中にある空虚感に襲われてしまうかもしれない。
 ただ、それに向き合わなければ、あなたの人類補完計画は完成してしまうだろう。人が生きるということの意義を、あの伝説のEOEの映画ポスターから約25年後に突き付けられる作品である。だから、劇場で見なければならない。「少年は大人になり、作品は神話になった。あなたはどうだったか?」と聞かれたとき、あなたが何を思い、何を語るのか。
 青い風が胸の中を叩いても、自分に微笑み続ける誰かを求めたあの日から四半世紀。その風の後を追いかけるようになれただろうか。
 その答えは、銀幕にある。

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