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親子関係のことから

2週間ほど、親子関係のことを考えていました。
きっかけは他愛もない話から。

「母が子離れできてなくてさ」と、身近な人たちと話している時に自分が言ったのですが、え、それって、自分が親離れできてないってこと?
って言ったと同時に思って。

そこからアダルトチルドレン(AC)の動画や記事を読んでは、自分を見つめなおしていました。

自分がACだと理解はしていたけれど、ちょっと最近警戒を解いてたな、と思いました。

そこで学んだことを少し。

①親子の役割逆転

可哀そうな父や母がいる家庭で起こりやすい。
病気がち、否定や罵倒が飛び交う、家族の誰かが我慢している状態。
子どもはそれを見て助けてあげたいと思う。
なぜなら、子どもは基本、親を愛しているから。

子どもは親の心理的な面倒を見続けないといけなくなる。
自分が喜びたい、楽しみたいということがあったとしても、お父さんやお母さんが可哀そうだから、自分だけが楽しむことに罪悪感。
子どもらしさや感情を押し殺す。

そうすると、自分の感情や感覚がわからなくなる。
自分の人生を生きてはいけない、となる。

でもそうして自分の居場所をつくってきた。
生き延びるために身につけてきた。

親は親で、自分の幸せを自分で選択しないといけない。自分の問題は自分で、夫婦の問題は夫婦で解決する。
※もちろん誰かの助けは借りたらいいけれど、子どもがはけ口になったり、子どもに頼りきるのは違う。

そのように育ってきた子どもは、可哀そうな子の面倒を見ようとする。
お世話をして、役に立って、自分が生きているのを感じる。
自分の存在価値をそこに見出す。
でもそれでは本当の安心感は得られない。

↑これ本当にまったくその通りで。
父の愚痴も、母の愚痴も散々聞いて育ってきた。
目の前に母がいるのに、父はわたしに母の嫌なところを言う、とかしょっちゅう。お互いからお互いの愚痴を聞いて。
知らんがな。まじで。それ2人でやってくれません?
とは、幼い頃は言わなかった。ずっと嫌な気持ちだった。

父はよく怒鳴っていた。
父が母を一方的に責めていた。
お酒を飲んだらさらに激しかった。
ちょっとしたことでプチンとキレて、わめいていた。
めんどくさー。

母は父に言いたいことが言えず、ずっと我慢していた。
そんな母を可哀そうだと思っていた。

一度、大きな離婚の危機を迎えてからは、父は少し考えを改めたらしく、今は怒鳴ったりするのはなくなった。
随分丸くなり、仲良くやっているようだ。何よりだ。

②共依存

そんなふうに育ってきたわたし。
自分の気持ちを大切にするとか、さっぱり。
自分に自信がなくて、大体不安定。
あの時こう言えばよかった、とか、帰り道に大反省会を繰り広げていた。

そんなまま付き合って結婚した、元夫の世話をずっとしていたわたし。したくてしていた。
けどなんか、ずっと満たされなくて。
夫の役割も奪ってた。
役に立っている自分、できる自分に、存在価値を見出していた。
ありのままの自分に価値があると認められていなかった。

母に愛されていなかったように見える人だった。
もしかしてそれは、自分を投影していたのかもしれない。

相手の世話をすることに夢中になり、相手が負うべき責任を自分が負ってしまっていた。共依存だ。

役割逆転にしても、共依存にしても、
まずはそうだったんだと気づくことが大きな一歩。
そして、自分が自分の味方になってあげること。
当時の自分に寄り添ってあげる。怖かったね、辛かったねと。
あとはもう、自分の本音を聴いて、自分を大切にして、好きなことをして。ひらめきを行動していくしかない。
自分がふと思ったことを信じる。自分を信頼する。

③愛とは

そういう親は、子どもを本当は愛していない、と何かで読んで、そうか、どこかほんのちょっと満たされないようなものがあるのは、これだったのかも、と思った。

でもじゃあ、今まで愛だと思っていたものは、そうじゃなかったのかなとか、じゃあ自分が与えてきたものは愛じゃなかったのかなとか、とても不安になった。

でも一周まわって、あの人たちなりに愛してくれていた、とわかった。大切にもしてもらった。

ただ、そういう幼い部分があって、
親も親でACで、時代もあって。
それはもう、しゃーない。
あとはもう、自分を自分で愛していけばいい。
もう大丈夫。

血のつながりがなくとも、
家族と思えるような人たちと
大好きで大切な人たちと
心でつながることができることも知った。

いや元をたどれば一つから生まれていて、
ワンネス。。いや一旦その話は置いとこう。

子どもこそ、無償の愛で親を愛する、と。
だから、ありのままの自分でいたら、
きっと愛そのものなんだなって。
自分が愛そのもので、ひたすら与えようって
思えたんだな。

いっぱい受けとっていっぱい与えよう。循環。

④価値

怒られたり、嫌われたりするのが怖いのは、
自分の中にある無価値感が刺激されるからとのこと。
外に「自分という人間の価値基準」をおいているのだと。

どんなことがあっても、自分の存在は
最初から最後まで素晴らしい。
理由や条件などない。
ただ、そうなのだ。

⑤まとめ

とはいえ、自分を認めるってなかなか難しくて、ただいるだけでいい、なんて、会社に勤めてたりしたら、仕事できないと認められないし評価もされるし。

ある時、人と話している時に、
ゆっくりただ聴くんじゃなくて、
何か結論に焦っている人を見て何か気になって。

アドバイスをしなきゃとか、ひらめきを導かないと、とか、ちゃんとしないと、って考えているのかなって思った。

自分を振り返ってみると、しっかりした自分でいなきゃ、と、思う節はあったかもしれない。
認められたくて。
だからそんな仮面をかぶっていたのかもなぁ。
本当はうっかりもするし、ゆっくりだし怠惰。

そんな着脱可能なはずの仮面を
いつの間にか自分の個性だと思い込んでいたのかもな。

どんな自分がいてもいい。
自分で自分を認めていく。
つい外に求めがちだけど。
時間はかかるだろうけれど。
自分との約束を果たす。それは、
ずっとしたいと思っていたことをするとか
ふとしたいと思ったことをするとか。

アファメーションも。

わたしは愛の女神です。
わたしがいるだけで、世界が色づき輝きます。

その通り!

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