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誠実になろう!


 図々しい人になってやろう、というのが大学に入学した当初の目標の一つだった。図々しくて、横柄で、破天荒な人になってやろう。この目標自体考えてみたら図々しいものだけど、もしかしたら共感してくれる人もいるかもしれない。皆さんの周りに図々しい人はいませんか? 図々しい人に振り回された経験はありませんか? きっとたいていの人はあると思います。ありませんか? もしないのであれば、あなたが図々しい人ということになります。
 図々しい人はいつだって得をする。というより、相手に損をさせて相対的に自分が得をする。遅刻する人、飲み会で最初に酔っぱう人、初対面の相手にモバイルバッテリーを借りる人、グループワークで居眠りをこいているくせに急にむっくと起き上がって「どう、話は進んだ?」と聞く人。あるいは無遠慮とも言えるかもしれない。自分の都合が最優先で、他人の都合などお構いなしだ。そういう人が身近にいると、多少頭に血は上るにせよ、憤るより先にどうも羨ましいという気持ちになってしまう。こちらを踏み台にして得をするのは、いつだってあちら側なのだから。もちろん人としてあまり褒められた態度ではないけど、処世術としては一つの正解だという気がしないでもない。

 具体例を挙げるとわかりやすい。
 僕の父はそういう図々しい星のもとに生まれ落ちた人だった。九州男児らしく根は真面目で堅実な男だったけど、どこか牧歌的というか、まったりとしたところがあって、何より人との距離を詰めるが抜群にうまかった。なあに所詮は同じ人間なんだから、腹割って話せば大抵のことは理解しあえる、と父からはそんな気概を感じさせた。昭和的とも捉えられる。味噌がなくなったらずけずけと隣の家まで借りに行くようなタイプだ。
 僕が上京し物件を決める際、父はわざわざ大阪から車を走らせて様子を見に来てくれた。親の鏡だ。僕はそのとき住むアパートの目途は立っていたものの、一階にするか二階にするかで決めかねていた。僕としては二階に住みたかったけど、二階の方が家賃は5000円も高い。僕は不動産屋の営業マンを前に腕組みをしていた。いくら何でも5000円は出せないなあ。そう思っていた矢先、それまでそっと息子を見守っていた父がとうとう重たい腰をあげたのだった。
「これは独り言なんですけど」父の目は確かに営業マンを捉えていた。「一階と同じ家賃で二階に住めたりしませんかね」
 狭小な不動産屋に九州の風が吹いた。営業マンは閉口し、事務の女性はこちらを二度見し、僕はあやうく椅子から転げ落ちるところだった。そんな我々の様子など意に介さず、父は依然飄々としながら「いや、これは独り言なんですけど」と言葉を継いだ。なんという精神力の持ち主だろう。あれほど大きな独り言は後にも先にも聞いたことがない。
 結果家賃は下がらず一階の部屋に住むことになったけど、僕は父の背中から何か大きなものを感じ得た気がした。父の大きな大きな背中はこう語っていた。いいか、うんと淀んだこの世の中をまっすぐに泳いでいくにはこの泳法しかないんだ!

 正直者が馬鹿を見る世の中、嘘も方便としてまかり通る世の中、図々しさの一つも身に着けずどう渡っていけばいいというのか。僕はまだ二十一歳で世間知らずもいいところだけど、そんな僕だって曲りなりにも理解したことはある。客引きで安いと謳っている居酒屋は大抵安くないし、清楚な見た目の女の子に限って淫乱だし、真面目に勉強してる人より遊んでいる人の方が社会適合力は高いし、年金は払ったって年寄りの食いぶちにされるだけで自分に返ってきやない。なんて荒んだ世の中なんだ。神っていう奴がこの世界を作ったのだとしたら、そいつはよほど性格の悪い奴だったに違いない。
 頼まれた仕事を嫌々やっても感謝の一つもされやしない。それでへそを曲げるなだなんて、どだい無理な頼みだ。世間は僕の思っている以上に損得勘定をもとに行動を定めている。そういう意味では、図々しくあるというのは周囲に流されるのと同質なのだ。その流れに逆らって進むのは途方もない体力を使う。だから僕は大学に入学したとき、膝を打って、これまでの鬱憤を晴らすように胸に誓ったのだ。よし、俺も図々しい人間になってやろう!


 大学デビュー、と言えばけつの座りがいいかもしれない。案の定というかなんというか、この目標はあっさりと達成された。ヒッチハイクもしたし、カラオケで上裸で絶叫もしたし、好きな人に告白だってやってのけた。公園で知らない人に花火をおすそわけしてもらってそのまま一緒にやったりもした(ありがとう)。ハロウィンの時期、道行くピカチュウの集団に写真をお願いされたから、内カメで変顔を撮って突き返してやったりもした(ごめんなさい)。他にも挙げたらきりがないほどの小罪微罪を、スタンプラリーのように積み重ねていった。結局それらは気の持ちようなので、コツさえつかめば誰でも容易く叶えることができる。今や僕は立派な図々しい人だ。つまり僕はなりたかった自分になることができたのだ。喜ばしいことじゃないか。けれどそれで万事解決といかないのが、物事の難しいところだ。万物は円を描いていると太極が言っていた通り、夢を叶えた人は往々にして原点回帰してこんなことに気付く。私が本当に欲しかったのはこんなものじゃない、むしろこれまで手放してきたものこそ、私が本当に欲しかったものだったのだ!

 まるで『青い鳥』の話みたいだ。僕はこんな当たり前のことに気が付くのにうっかり二年も費やしてしまった。高い授業料だった。人は図々しくあるべきじゃないし、横柄であるべきじゃないし、破天荒であるべきじゃない。それってなんだかチャラチャラしているし軽薄じゃないか。そんな軽薄な人間に自らなろうだなんて考えるのは馬鹿げている。そういうのはせいぜいネオギャルかマイルドヤンキーに任せておけばいい。彼らは図々しさを一種の魅力として昇華した人たちなのだから。世の中には適材適所という便利な言葉がある。もしも僕に図々しさが似合わないのなら、目指すべきは謙虚で、実直で、思慮深い人間のはずだ。
 確かに図々しい人は得をすることが多いけど、それは長い目で見たらまた違った結果になってくるのかもしれない。実際のところ、この二年で痛い目を見たこともたくさんあった。そういうとき本当に心をえぐられるのは、痛い目を見た原因が他ならぬ自分にあるということだ。他人に原因があるなら割り切って自分を許すことができるけど、自分に原因があるとわかっていたら、どうしたって自分を責めずにはいられない。けれどそれも仕方ない。一文無しで深夜の公園のベンチで目覚めたときに、自分のことを好きになれる人はなかなかいない。
 鼠だって電気ショックを与えれば、痛みの少ない選択肢を選ぶようになる。僕だって馬鹿ではないから、そういう生身の経験を通していくつかの処世と身のこなしを学んだ。つまり無理して図々しくあろうとするのは、不健全な態度だし、肩が凝るし、痛い目を見ることも多い。それよりかは多少損をすることがあったとしても、真面目に謙虚に素直に、生きていた方がいい。そういう生き方はずいぶん退屈ではあるにせよ、やっぱり人は不自然な形で自分をすり減らすべきではない。


 太宰の『人間失格』に竹一というクラスメイトが出てくる。主人公が道化を演じて、体育の鉄棒でわざと失敗してクラスの笑いをかっさらったとき、竹一は端の方でにやにやしながら、「ワザ、ワザ」と言ってくるのだ。この「ワザ」は「わざと」を意味する。主人公の道化は竹一に見破られていたのだ。そのことに気づいて主人公は震撼する。
 つまり何が言いたいかというと、僕の心の中には常にこの竹一がいる。僕が無理をしたり見栄を張ったりしようとすると、途端に彼が「ワザ、ワザ」と言ってくる。それで僕はするすると怖気づいて、何をすることも言うこともできなくなる。まあ、これって誰にでもある感覚ではあるのだろうけど。有り体に言えば、自戒とか自粛。何もわざわざ竹一なんて名前を出さなくてもよかったのかもしれない。
 それから身の回りにも、竹一的要素を持った人はたくさんいる。もっとも竹一よりは取っつきやすくて、好意的だけど。その竹一は、相手の取り繕った性格の裏側をまるっと見抜くという場合もあるし、単に相手の軽薄な態度に軽蔑の眼差しを向けるという場合もある。
 例えば僕がつい見栄を張って勢い任せの行動をとったとき、あるいは周囲に流されて好ましくない発言をしたとき、竹一だけは明確に僕の言動をつっぱねる。他の人は受け流してくれても、竹一だけは拒絶し、はっきりと幻滅の態度を示す。あなたには失望したよ、とその目は語っている。そんなとき僕は、みっともないくらいあたふたしながら、言い訳を考えずにはいられない。何とか誤解を解こうと言葉を並べたくなる。違う、これは本当の俺じゃないんだ。本当の俺はもっと、こう、いい人なんだ。だからどうか、今のは見過ごしてくれないか。そんな言い訳は後の祭りとわかっているので、わざわざ口に出したりはしない。覆水盆に返らず。一度僕に幻滅した竹一は二度と僕と取り合ってくれない、とそんな気がするので、僕はそのたび陰惨な気持ちになる。ああ、僕はなんてひどいことをしてしまったのだろう。そういうみじめな気持ちにはできるだけなりたくないので、僕は竹一に失望されないよう、やっぱり誠実な人にならなければならない。誰かに好かれたいという気持ちより、嫌われたくないという気持ちの方が、ときには推進力になる。中途半端に抽象的な話ばかりで申し訳ないけど。

 あまり細かい筋は覚えてないけど、浅野いにおの『おやすみプンプン』にも確かそんなシーンがあった。お世辞にも社交的とは言えないプンプンは、ある日吹っ切れて、チャラい人間にイメチェンをしてみせる。そうして自動車教習所でナンパをしているところを、初恋の相手に見られてしまうのだ。あれは痛いくらいに悲しいシーンだった。僕にはチャラついて気が大きくなっているプンプンの気持ちもわかるし、初恋の相手に見られて我に返るプンプンの気持ちもわかる。


 相応に歳を重ねて丸くなったと言われれば、その通りなのかもしれない。それでも僕は心から、ちゃんと、誠実な人になりたいと思った。僕が斉藤和義だったら今頃歌を作りだしているに違いない。誠実な人を目の当たりにすると、だらしくなく呆けた自分がほとほと情けなくなる。穴があったら入りたいくらいだ。僕が相手の親切に寄りかかっている間、相手は僕の体重を背中に感じながら黙って耐え忍んでいる。そういうのって、あんまりフェアじゃない。だから僕は今、これまで自分と袂を分かち、弱さと優しさを履き違えないように慎重になりながら、けれんみを削ぎ、できるだけ誠実な人になろうと努力している。けれど考えてみたらこの目標自体、誠実さが感じられないきなくさい話だ。
 ビジネス書なんかによく書かれている通り、抽象的な目標を具体的な行動に移す際、重要なのはハードルをぐんと下げておくことだ。日進月歩、千里の道も一歩から。誠実な人になるための足掛かりとして、僕はまずモバイルバッテリーを持ち歩いて、いつでも人に貸せるように待機している。虎視眈々と充電切れに嘆く人を待ち構えている。少なくともこれで、誰も僕のことを図々しい人だとは思うまい。



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