見出し画像

三島は心のプロテイン

 

 太宰と三島についての個人的な感想を書こうと思う。すべてを書こうとするとものすごい文量になってしまうので、そしてそれを書くほどの熱量はないので、ここに書くのはほんの一部ということになる。最近、太宰の文章を読んだときに、やっぱり自分はあまりこの人の文章を受け付けないなと思ったので、そのあたりの所感をつらつらと書き連ねるつもりだ。

 三島が初めて太宰と対面した際、面と向かって「僕は太宰さんの文学が嫌いなんです」と言い放ったのは有名な話だけど、可能なら僕も腰巾着のように三島の後ろについて「そうだそうだ!」と言ってやりたい。ただしそれは「三島がそこにいてくれたら」という条件付きで、自分一人で太宰に歯向かう勇気は毛頭ない。もし太宰と二人きりになったら、それはそれで都合よく胡麻を擦って「いやあ、太宰先生の小説は日本一ですな」とか言ってお酌をするとは思う。
 偉そうなことを言うようだけど、僕が太宰をあまり好きになれないのは、あの態度というかライフスタイルというかスタンスによるもので、いかにも厭世的な悲劇のスターを演じきっているところがどうも気に食わない。極端な物言いをすると、彼の文学とは「俺って可哀そうでしょ文学」であって、それに賛同した読者が、立場を自分に置き換えて「私もやっぱり可哀そうだよね」とか思って共感しているにすぎない(失礼)。もちろん僕だって太宰の作品を読んで大いに賛同するし共感もする。だけどその共感してしまう自分というのが嫌で、なんだかみっともないし、軽薄だなと思ってしまう。だから少なくとも表向きのスタンスとしては、僕は太宰を嫌いでいたい。これが目一杯の強がりだ。
 太宰という人は、こちらがめそめそしているといつの間にか隣にやってきて、やんわり肩を抱いたりしながら、甘い声で「どうしたんだ、話を聞こうか」とか言ってきそうだ。想像するだに身の毛もよだつ。そしてうまいこと話を聞きだして「そうか、それは彼氏さんが悪いね」と言ってそのまま朝まで帰さないに違いない。てやんでい! そんな男の書く女々しい文章を、誰か好き好んで読むというのか!
 とまで書いたはいいものの、ひょっとしたら言い過ぎなのかもしれない。太宰が天国でくしゃみをして、そのまま風邪をひいてしまうかもしれない。それはいくら僕でも望むところではないのでこの辺りで一度おもねっておくと、改めて言うまでもないにせよ、太宰の才能というのはやっぱり特異で、作品を読んでいても唸ってしまうような描写が数多くある。それから作品モチーフが秀逸で、僕なんかがここでとやかく論じても仕方がないわけだけど、案外ぱあっと明るいコメディチックなものを書かせると、彼くらい面白い作品を書ける人はそういないんじゃないかと思う。シニカルだけど人間愛に満ちていて、遠い世界の話でもまるで世間話みたいなリアリティを持って我々の前に表出される。これはこれで褒めすぎな気もするけど。


 かたや我らが三島の素晴らしいところは、彼がまごうことなき秀才でありながら、生粋の筋肉バカであるという点だ。彼は文字通り文武両道を成し遂げた男だ。彼がボディビルに目覚めた経緯はとかく長い話になるけど、まあ、かくかくしかじか、彼は長年のコンプレックスを晴らすため、一念発起して右手のペンをダンベルに持ち替えたのだ(もちろんこれは比喩で、彼はボディビルと並行して執筆活動も行っている)。言うまでもなく、コンプレックスに立ち向かう人間の姿ほど胸を熱くさせるものはない。
 思うに、太宰と三島の持つコンプレックスは、内面的要素においては近しいものだった。彼らは元来ネガティブで、精神的に弱い人間だった。実際三島は、太宰を嫌いな理由の一つに同族嫌悪があると語っている。つまり二人は同じコンプレックスを抱えながら、それに対するアプローチが違うがためにいがみあい、すれ違い、対立の姿勢を崩さなかったのだ。そんなのまるでラブコメじゃないか! イフストーリーとして二人が薔薇色の道を歩くのは、腐女子がなんとも鼻息を荒くさせそうな展開である。
 どこのエッセイで読んだかはもう忘れてしまったけど、三島が「弱いよりは強い方がいいに決まっている。だから私は強くあろうとするのだ」みたいなことを書いていて、僕はこのシンプルだけど力強い理念にいたく感動してしまった。なるほど、その通りだ。弱いより強い方がいいに決まっている。これは何も弱い立場の人を突き放す言葉ではなくて、ただ個々人としてはこういう理念を掲げておいた方が身のためだよ、ときっと三島なりに説いてくれているのだ。これはスポ根ともまた違う、もっと根強い精神的な支柱なのだ。
 やっぱり筋肉は裏切らない。もし仮に、自分の悩みを三島に相談する機会があったとしたら「なるほどね、ところで君の大胸筋は盛り上がりに欠けているようだけど、ちゃんとトレーニングはしているのかい?」とかなんとか、自慢の筋肉をぴくぴくさせながら言ってきそうだ。ついでにおすすめのプロテインを二三見繕って処方してくるかもしれない。そんなことをされたら頭に血が上ってぶっ飛ばしてやりたくなるけど、彼は武術にも長けた人だったので、おそらくこちらがコテンパンにされて終わるだろう。つまり三島にちゃんと話を聞いてもらうためには、こちらもそれ相応の筋肉を保持していなくてはならないのだ。さもないと「筋肉をつけてからものを言え」と一蹴されてしまう。けれどそれ相応の筋肉をつけた頃には、話を聞いてもらわずとも、悩みなど雲散霧消していそうな気もする。だとすれば悔しいものの、彼の理念を証明することになる。
 精神科に言って悩みを話すと、医者に睡眠時間を尋ねられることがよくあるそうだ。つまり精神疾患の原因の多くは、睡眠時間の短さにある。裏を返せば、ある程度の症状は睡眠時間を増やすだけで改善されるわけで、これはちょうど三島が筋トレを推奨しているのと同じだ(彼が筋トレを推奨してきたのは僕の妄想の中での話だ)。つまるところ規則正しい生活こそが健康の源であり、とにもかくにも我々はそれを死守しなくてはならない。話はそれからだ。三島は太宰にこう言い放っている。「生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならない」全ての芸術家はこの言葉を胸に刻んだほうがいい。


 僕の持っている二人の作家のイメージは、太宰は「自分の弱さを肯定する」作家で、三島は「自分の弱さを否定する」作家だ。もちろんずいぶん大雑把で、乱暴なレッテルではあるにせよ。僕が三島が好きで太宰が嫌いなのは、なにも良し悪しの問題ではなくて、あくまで好みの問題なのだ。僕は三島の文章を読むといつもスクワットをしたくなる。三島は心のプロテインだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?