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逆ホームシック!


 帰省三日目にして早くも逆ホームシック。東京に帰りたくて仕方ない。二週間ほど居るつもりだったが、早々に引きあげようかと考え始める。
 もとより些細なことが気になる性で、そして一度気になりだすと何も手につかなくなってしまうせいで、無意味に時間だけが過ぎていく。効率や生産性という言葉は好きじゃないが、呆けて暮れるこの現状、人生の損失という気がしてならない。実家でできることは限られていると重々承知はしていたものの、いざ帰省してみると本当にすることがなく、そのくせ雑音だけは多いという環境に辟易としてしまう。自業自得もいいところだ。一日三度山盛りのご飯を食べられることに感謝しつつ、この数年で習慣化した不摂生がかえって恋しくなる。東京デカタンス。僕は生活が嫌いだ。生活と、生活をさも正義のように振りかざす人が嫌いだ。我々は生きるために生活をするのであって、生活をするために生きているのではない。だから親が、夜更かしをするなだの洗濯物を出せだの一々干渉してくるのに半ばうんざりするが、もちろんそんな態度はおくびにも出さない。どれだけ言葉を並べても、おいしいご飯にありつけるのには敵わないからだ。あらゆる理念は満腹のもとに成り立つ。だから生活拒否と食事は相性が悪い。そういう不如意な暮らしを想像するうちに、ふと高校の頃の感触を思い出す。自分は生活が嫌で東京に出たのだと思う。一人暮らしであれば、生活をしようがしまいが個人の勝手だ。それでも自分が生活力のある親のもとに生まれたことには感謝している。これ以上ない幸運だとさえ思っている。親は生活が上手い。生きていく上で必要な雑多な用事を実に楽しそうにこなしている。それを羨ましく思う。僕も歳をとればそういう造作が自然に身につくのだろうか。


 実家ではリビングの隣の和室が自室としてあてがわれている。だからここで本を読んだりスマホをいじったりしているが、テレビの音や会話の声がすべて筒抜けでどうも集中できない。おまけに部屋にはクサガメのかめきちの水槽がある。このかめきちは、僕が小学生のときにどうしても飼いたいと親にせっついて買ってもらい、そのうち僕が世話に飽きてろくすっぽ面倒を見なくなり、以来十年以上父が面倒見ているカメだ。おそらくかめきちは僕を憎んでいるので、彼と同じ部屋で過ごすのはどうしたって居心地が悪い。きっとかめきちからしても居心地が悪い。かめきちが騒ぐことはないが、彼の糞をこんもり詰まらせた濾過器のフィルターが、ときたまジージーと唸りをあげる。世界は悲哀に満ちている。
 それから部屋には祖父母の仏壇がある。一体誰なのか判別がつかないほど若い二人の写真が、仏壇に飾られている。だから僕は、毎晩かめきちと祖父母に見守られながら眠りにつく。自分がたいがい無礼な人間であることは自覚しているが、祖父母の仏壇の前で自慰行為に勤しむほど見境がなくなってはいないので、せめてもの人間の尊厳をかけて自慰行為は自粛している。『ノルウェイの森』で、ミドリという女の子が父親の仏壇の前で股を広げるシーンがあったが、僕はそこまでロックじゃない。ともあれ禁酒、禁煙、筋トレ、という当初の帰省中の目標に、禁欲という立派な尾ひれまでついてしまった。麻雀だったら満貫。東京に戻る頃には仙人にでもなっていないと割に合わない。


 四六時中家にいると気が狂いそうなので、日が落ちてから毎日辺りを散歩するようにしている。本当は日中に出歩きたいが、日中は外出できる気温じゃない。連日三十八度や三十九度、体温を上回る気温が続いている。
 近所は住宅と公園くらいしかないが、歩いているだけでも案外面白い発見がある。昨日は蛙に出くわした。一昨日はカブトムシに出くわした。その前の日は蝉が顔面にぶつかってきたのでひとしきり悪態をついた。それから月がきれいだ。帰省初日は日没を追うような様相だったが、今日なんかはすっかり太陽に差をつけられ一人ぼっちで西の空に浮かんでいる。これが散歩中の方位磁針になるから助かる。爪のようにざっくりと欠けた月を見ていて、家に帰ったら爪を切ろうと考える。
 風呂上がりに爪切りを貸してほしいと親に頼むと、お父さんのとお母さんのとどちらがいいかと尋ねられる。別にどちらのだって構わないが、二人が別々の爪切りを使っているのを初めて知って、さては何かあったのではないかと夫婦仲を危惧する。しかし訳を聞くとなんてことなくて、ただ爪の形に合わないからと、母が自分用の爪切りを買っただけのことらしい。ほっと胸を撫で下ろす。母が爪切りをどこで買ったかなどの経緯を尋ねてもいないのにえんえん話し始めて、上の空で相槌を打つ。母はよく買い物の話をする。父は定年退職以来、我が身となった年金制度に俄然興味が湧いたらしく、口を開けばすぐ年金制度や国民保険や軽減税率の話をする。そういう話を聞くのも親孝行だと帰省初日は腹を括っていたが、さすがに三日目ともなると聞いていてさもしい気持ちになるので、爪を切り終えたら早々と寝室へ逃げる。かめきちが恨めしい目でこちらを見ている。僕は仏壇に手を合わせて、じいちゃんばあちゃん、あなたたちの息子夫婦は今日も元気にやってます、と報告して日付が変わる前には床につく。


 今日は朝から自転車を三十分も走らせて図書館に行った。日照りに晒されるうえ坂道が多い土地のせいで汗だくになるが、家でひねもすエアコンに当たって生きているのか死んでいるのかわからないような状態で一日を終えるよりは余程気分がいい。山が近いので自然と緑に目がいく。これも気分がいい。図書館に目当ての本はなかったが、利用カードを持っていないので予約することもできない。大人しく隅の方で文芸誌を読む。ここ最近は芥川賞受賞作を読むのにはまっている。一丁前の文学青年にでもなったつもりだ。お気に入りは村上龍の『限りなく透明に近いブルー』、西村賢太の『苦役列車』、金原ひとみの『蛇にピアス』。おそらく偶然だが生活破綻的な小説がしっくりくる。
 図書館を出て近くのホリーズコーヒーに入ると、そこは常連客の溜まり場になっているらしく、一人のおじさんがやたらと他の客に声を掛けてまわっている。明石家さんまのような声をしたおじさんだったが、明石屋さんまのようなトーク力は持ち合わせていなかったので、そのうち誰にも相手にされなくなった。それで拗ねたのだか何だか知らないが、おじさんはすっかりしおらしくなってスポーツ新聞を広げると、ぽこぽこぽこ、と独り言を言い始めた。どうか安心してほしい。僕の書き間違いでなければ、読者諸賢の読み間違いでもない、彼は確かにぽこぽこぽこと言っていたのだ。僕は現代に迷い込んだ古代人のように目を白黒させ、カルチャーショックに打ちひしがれた。僕がおかしいのか、この町がおかしいのか。陰惨な気持ちになって、コーヒーを飲み干し店を出る。
 帰り道に大森靖子を聞く。「あのまちを歩く才能がなかったから 私新宿が好き 汚れてもいいの」
 ぽこぽこぽこ、と口に出してみる。僕にだってこの町を歩く才能はない。


 僕が大阪に対して感じるそぐわなさは、一体どこに由来するものなのだろうか。東京にいる間はけっこう懐かしく思ったりもするのだが、いざ帰ってくるとげっそりして、こんなところにはとてもいられないという気分になる。人と会っていると海を見たくなるし、海を見ていると人に会いたくなる。いや、それとは少し違うか。
 望郷の念っていうのは不思議だ。以前、金沢の室生犀星記念館に行ったときに、こんな詩が石碑に刻まれていた。「ふるさとは 遠きにありて 思うもの そして悲しく うたふもの よしやうらぶれて 異土の乞食と なるとても 帰るところに あるまじや」ざっくばらんに訳すと「故郷は懐かしいけど、たとえ東京で乞食になったとしても帰るべき場所ちゃうで」という感じだ。室生犀星は東京で落ちぶれて一度金沢に帰ったらしいが、そこで歓迎されるどころかぞんざいな扱いを受け、ひどくショックを受けたらしい。それで思いを新たに、例え何があってももう金沢には帰るまいと決心する。わかるような、よくわからないような話だ。
 東京が恋しい。

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