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西村賢太を追いかけて


 恥も外聞もないとは、この男にはむしろ格好の褒め言葉に違いない。
 中卒、前科二犯、性犯罪者の倅。その背景と八方破れの生活を、西村賢太は包み隠さず書き続けた。

 何かにつけて書き起こさないことには気持ちが鎮まらない人間なので、とにもかくにもという思いで、浮かんだ言葉をそっくりそのまま、こうして書き連ねている。
 僕が初めて西村賢太の小説を読んだのは今年の八月。それはこれまでの人生における指折りの劇的な出会いで、月並みな表現をすれば、それは雷に打たれたような衝撃だった。ともすると将来にまつわる重要な事項が、あの一瞬のうちに決まってしまったのではないかとさえ思った。
 人生はいつだって奇想天外、巡り合わせの連続だが、その後の人生に影響を及ぼすような劇的な出会いにはおおよそ数に限りがある。幼い時分であれば、スポーツやらゲームやら漫画やら、分別もなく何かと夢中になるが、大抵はすぐに飽きて終わる。
 現に僕は中学高校と水泳に明け暮れ、ひょっとするとこれは生涯のライフワークになるやもとさえ思っていたが、今は水泳と無縁な生活を送っている。毎日反吐を吐くまで泳いでいたことも、髪に残る塩素の匂いも、苔まみれの公立高校のプールも、今ではさほど懐かしくもない。後悔はないが、かといってそれが長い人生における重要な要素たり得たかと言えば、甚だ怪しい。しかしそれもまあ、よくある話。運命の相手だと信じていた相手だって、失恋した一年後にはすっかり忘れている。長い目で見ればそれはせいぜい寄り道程度の要素に過ぎない。
 とはいえ道しるべ的な大きな出会いは、年を重ねるごとに少なくなるに違いない。それは言うなれば感性の劣化、人生が軌道に乗ったあとにわざわざ別の道に魅力を感じることは少なくなる。まだたったの二十一年しか生きていない僕ですら、そのことを痛切に感じる。年々感動することが少なくなる。それは達観というより諦観に近い。
 僕にはそれが嫌でならなくて、だからこそそれに抗おうと、恥も捨てて必死に自分に影響を与えるものを探している。安っぽい言い換えをすれば、何者かが自分を別世界へ連れて行ってくれるのを淡くも未だに期待している。
 その甲斐あってか僕は西村賢太に出会うことができた。やはり手当たり次第に挑戦してみるものだと思う。しかしそれでいて西村賢太の作品を読んで思ったのは、僕は遅かれ早かれ彼の作品に触れていたのではないかということだった。彼の作品は僕の好みにあまりにも合致していた。だから狭い世界、こちらから駆け回っていなくても、いずれはどこかで鉢合わせていたのだろう。しかしそれを早送りし、今年の夏にできたことに多大なる意味があるはずだ。僕は二十一歳の夏を西村賢太に捧げたことを生涯誇れる。
 以前映画の脚本に関する本のなかに、良い映画にはプロットポイントが二箇所ある、と書いてあるのを読んだ。いわく、映画を百二十分と仮定したときに四十分頃と八十分頃に物語を大きく動かす仕掛けがある映画こそ優れた映画だと。
 もしも人生を映画になぞらえるなら、そしてこの出会いこそ僕の人生にとっての一度目のプロットポイントなら、という妄想はあながち妄想にとどまらず、今や現実をも侵食しようとしている。


 とまれ、個人的な慕情をつらつら書き連ねても仕方ないので、一応は作家の紹介もしたい。となれば彼が私小説作家であるという特性上、生い立ちにまで遡るのは、もはや必然だろう。 
 彼の人生はなかなかにタフでハードだ。
 彼は一九六七年、東京都の江戸川区に生まれた。小学生のときに父親が逮捕され、両親が離婚。中学生のときにそれが性犯罪だったと知る。以来学校には行かなくなり、家庭内暴力を繰り返すようになった。
 中学を卒業しても高校にはあがらず、一人暮らしを開始。そこから日雇いの人足仕事で生計を立てようとするが、生来の不精者でその日暮らしさえままならない。稼いだ金は酒と煙草と風俗に消え、家賃を滞納し家を追われることもしばしば。八方塞がりで母に金を無心しては、暴力を働き、ついには見限られてしまう。
 二十代になっても定職にはつかず、暴力事件で二度の逮捕。三十代、ようやく一人の女性と同棲にまでこぎつけるが、自身の暴言・暴力癖で逃げられる始末。そこからいよいよ筆を取り、私小説を書き始めた。するととんとん拍子で芥川賞受賞にまで至り、バラエティ番組にも出演するほどの超売れっ子となる。作品も意欲的に発表し、いよいよ人生は軌道に乗ってきたかのように思われた。しかし禍福は糾える縄の如し。一昨年、タクシー乗車中に心臓発作を起こし、五十四歳にして惜しまれつつも亡くなった。
 という具合にざっと生涯をなぞっただけでも、彼がいかに奇抜で破天荒な人物だったのかがわかる。明治や大正ならいざ知らず、平成ど真ん中を生きた男が、こうも無様な人生を送っていたとは、それだけで十分凄みがある。
 実際、彼が人気を得た一番の要因はその破天荒ぶりにあるのだろう。バイト先の気に食わない奴を殴って留置所に入れられたり(「春は青いバスに乗って」)、風俗嬢に恋をして百万円近くを手渡したまま逃げられたり(「けがれなき酒の反吐」)、同棲相手につまらない理由で暴力を振るったり(秋恵ものの数々)、レギュラー出演のテレビ番組をいきなり降板したり、はっきり言って倫理的にアウトな言動を、彼は幾度も繰り返し、そのうえあろうことか、それをそのまま小説に仕立ててしまうのだ。
 読者には常、通常ならざるものを拝みたくなる、言うなれば怖いもの見たさの好奇心が付きまとう。それがSFやファンタジーなら訳ないが、自分の人生をほんの少しずらしたところにある私小説ならどうか。同じ世界線を生きる人物の物語として、一層の興味を惹きはしないか。その、もしかしたらこれは俺だったのかもしれない、という想像こそが彼の作品を読ませるのだ。
 加えて、彼の作品が必ずしも自分の人生と重なるとは限らないにせよ、悔しいことに、共感できてしまう部分が多々ある。それは例えば怠惰なところ、他者に劣等感を抱いているところ、それでいて人並み以上に見栄っ張りなところ。そういうどこまでも情けない人間の本性を、彼は臆面もなく曝け出してしまう。それも、この手の小説にありがちな自己憐憫に満ちた甘ったれの文章ではなく、あくまで内省的かつユーモラスな第三者目線の文章で書かれている。それもまた彼の小説の魅力に違いない。


 というのが彼の一側面なのだが、しかし言うまでもなく、破天荒な人間が誰しも魅力的な文章を書けるわけではない。あるいは逆に捉えれば、破天荒でありながら魅力的な文章を書ける点こそ、彼の一番の強みだったと言えるかもしれない。ではいかにして彼が作家にまで成り上がったか。その所以を知るには、また別の側面から捉える必要がある。
 思うに、彼は作家である以上に、熱心な私小説の研究家だった。
 考えてみれば、それは中卒の前科者というイメージとは似ても似つかない。実際、彼はどこの大学にも研究所にも所属してはいないのだ。しかし十九歳のある日を境に、彼は田中英光という昭和初期の私小説作家にはまり、好きが高じて個人的に研究を始めた。そしてその熱の上げ方が尋常でなかった。
 自筆書や書簡の収集に始まり、関係者への聞き書きや論考を書くなどし、あげくは自費出版で『田中英光私研究』なる研究書まで刊行している。なかでも目を見張るのは、全集にすら収録されていない英光の作品も掲載している点だ。それはつまり、単なる行き過ぎたファンの道楽と一蹴してはいられない、専門の研究者さえ唸らせる代物だったのだ。当然これらの掲載には英光の遺族による許可が必要なわけだが、そのあたりも周到に済ませているというから聞いて驚く。まだ作家としてデビューもしていない、言わば何者でもない男が、英光の遺族と繋がりを持つほどの信頼を得ていたのだ。彼いわく「寝ても英光、覚めても英光」という状態で二十代を英光に捧げたらしいが、それがどれほどの熱中ぶりだったかは想像に余りある。
 しかし悲しいかな、それは彼の一側面であって、別の側面ではやはりかの生まれ持った傍若無人な態度が備わっているのだった。
 結果的に彼は、二十八歳の頃、飲みの場で英光の遺族に無礼を働き、金輪奈落の出禁を食らっている。それで自分にもほとほと愛想が尽きたのだろう、十年かけて集めた資料を売り払い(ある文学館に八百万円で売れたという)、以後英光には関わらないと固く誓ったのだった。

 ところで、あれほど赤裸々に失態を小説にしていた彼が、いよいよ亡くなるまで書かなかったトピック(という言い方はいささかまずいかもしれないが)が二つある。そのうちの一つが、この英光との決別だ。
 もちろん、長生きしていればそのうち書いていたという見立てもできるが、僕はそれにはあまり賛同できない。それはもし書いた場合、英光の遺族という容易に特定できる人物が登場してしまうというのが一つ、それからやはり、彼にとってこの経験は書くには筆の重いトラウマ的出来事だったのではないか。そのあたりの心境も、亡くなった今となっては確認のしようがない。とはいえあえて蛇足的に付け足せば、彼は作家デビューの後に英光の短篇集の編集もしているので、必ずしも悲観的に捉えるべきではないのかもしれない。
 そして二つ目のトピックこそ、二十九歳での二度目の逮捕だ。
 それが暴力事件だったことは本人の小説に書かれているが、その詳細は詳らかにされていない。しかしそれが前年の失態に続き、身に応えたのは確かだろう。周囲の人にも見放され、彼は人生のどん底を見た。そして八方塞がりの中で彼が希望を見出したのは、あにわからんや、またも私小説だった。
 以後彼は藤澤清造という大正期の私小説作家を心の拠り所とした。

 藤澤清造は、脚に不治の病を患い、作家としても鳴かず飛ばずで貧窮に喘ぎ、最後は梅毒を患い東京都芝公園にて狂凍死したという破滅型の私小説作家だ。没後は作品が復刊されることもない、言うなれば忘れられた作家だ。彼はそんな藤澤清造に心酔し、以後自らを清造の「歿後弟子」とし、清造の全集を編むことを人生の目標と掲げた。
 その偏愛ぶりはかつての英光へのものすら凌駕する。
 石川県七尾にある清造の墓まで毎月出向いて掃苔し、遺族にはその墓標を譲り受け、ついには清造と同じ苔台に自分の生前墓まで建ててしまう。これもまた彼が作家として名声を得る前であることを鑑みれば、その異様ぶりがわかるはずだ。
 もとを辿れば彼が私小説を書きはじめたのも、件の「歿後弟子」の名に恥じぬようにという思いがあってのことだ。いきなり小説を書くのは苦戦しそうなところだが、そこはさすが熱狂的私小説オタク、はじめから書き方を心得ていたように見受けられる。その表現には藤澤清造だけでなく、田中英光、川崎長太郎、葛西善蔵等の私小説作家からの影響も色濃く出ている。同人誌に載せた小説は首尾よく文芸誌へと転載され、作家としての生活を開始し、そこから数年の月日を経て見事芥川賞受賞へと相成った。
 芥川賞を受賞した際、彼が最初に出版社に掛け合ったのは、清造作品の復刊だったという。そしてそれは見事に果たされている。清造の作品は今に至るまでに数冊復刊され、そのうちには彼が手掛けていないものも含まれる。もちろんそれらが、西村賢太の師匠という色眼鏡付きで読者に受け入れられていた面があるのは否定できない。しかしもはや誰も見向きもしなかった荒廃した土地を、たった一人で一から耕し、種を蒔き、花を咲かせたという事実は、讃えられてしかるべきだろう。思うに、彼の最たる功績は藤澤清造の名を再び世に知らしめたことだった。きっと作家としての功績を讃えられるより、歿後弟子として彼の功績を讃えられるほうが、彼も喜ぶに違いない。
 既述の通り、彼は清造の全集刊行を生涯の目標としていたわけだが、それはついに果たされないまま亡くなってしまった。しかしその意を継ぐものは必ずすぐに現れる。彼の耕した土壌はいまや豊穣な畑となっているのだから。


 現に僕は今、「寝ても賢太、覚めても賢太」という格好で、夢中になってその背中を追いかけている。もっとも、この人が導いてくれるのはあまり大層な道ではないだろうが、それでも構わないから、願わくば僕の人生を無茶苦茶にしてほしい。
 僕は大学で近現代文学を専攻していて、今は田中英光を扱っている。英光を研究テーマに選んだのは言わずもがな、西村賢太の影響だ。それなら素直に西村賢太を研究テーマに選べばよさそうなものだが、いかんせん彼はまだ新しい作家で、先行研究もないに等しい。かつて彼が藤澤清造を対象にやったようなゼロイチに近い研究は、とても今の自分にはできる胆力がなく、なくなく諦める次第となった。
 かわりに第一候補として挙げたのが藤澤清造だった。
 それから僕は刊行されている清造の作品を貪り読んだのだが、意外なことにこちらはあまり肌に合わなかった。西村賢太の師匠たる作家の小説であるがゆえ、きっと自分の好みに合うと信じていたのだが、何度読み返していても一向に心が揺さぶられない。もちろん、ことごとく不幸で惨めで貧乏な生活の描写には臨場感があり、むしろ僕の好むところだった。しかし清造はそんな自身の生活を嘆いてしまっている。おそらくその心の叫びこそ清造作品の肝なのだが、僕にはどうもそれが受け付けなかった。
 僕の思う西村賢太の魅力は、その八方破れの生活を、嘆くこともせず、同情を請うこともせず、あくまでエンタメとして昇華しているところだ。その昇華が、清造の作品ではなされていないように感じた。無論、これは作品の良し悪しを問うているのではなく、僕には合わなかったという単なる一個人の感想だ。とはいえ、自分の敬愛する作家の敬愛する作家が、自分に合わないという事実には、それなりに打ちのめされた。
 僕は藤澤清造を諦め、次には田中英光の本を手に取ることにした。
 そしてこれが正解だった。
 この人の作品が、もうべらぼうに面白かったのだ。西村賢太の言葉を借りれば「何やら読まされる」。僕がはまったのは、やはり西村賢太と同じ晩年期の「野狐」や「離魂」といったいわゆるデカダン小説の一群。
 英光の作品にも、やはり他責的で、同情を請うような表現は多出するのだが、もはやそんなのも今更気にならないくらい、この人の小説は狂っている。もうどうしようもないくらい頭がおかしい。実際晩年の彼は酒とアドルムに溺れ幻視幻覚に苦しんでいたそうで、記憶をなくすこともしばしば、妻子と愛人の家を行ったり来たりする生活を送っていた。そんな暮らしを綴った小説は、もちろん身につまされる箇所もありながら、全体でみれば見事な道化のエンタメ小説になっている。そんな風に読むなんて不謹慎だと言う人も中にはいるかもしれないが、僕にはどうしてもこれが、面白くて仕方なかった。何やら読まされるのだ。
 そうして僕は研究テーマに田中英光の「離魂」を選び、つい先日ゼミでの発表を終えてようやくひと段落がついた。振り返ってみるに、英光について調べたこの一ヶ月は、ここしばらくで最も充実した時間だった。なんと言ってもそれは、かつて西村賢太も通った道なのだ。僕は彼の二十代を追体験するが如く、英光を追いかけた。
 調べ物の最中、西村賢太が書いた件の『田中英光私研究』にも触れた。その本は完成した当時、嬉しさのあまり本人によって国会図書館に寄贈されたのだという。そして僕ははるばる国会図書館まで出張り、その本を手にした。いくら正当な理由があるとはいえ、ここまで来るともはや変質的なストーカーのようだ。そして僕はその本を読み、いたく感動した。あえて正直に語れば、その内容以上に、西村賢太と同じ道を歩んでいる自分に感動した。もっとも僕は大阪生まれの私立大学生で、おそらく彼が最も毛嫌いするところの人種なのだが。しかしそれでも、そんな僕なりの、最善の方法で、彼に敬意を示せたのではないかと、半ば酔っ払いながら思っている。


 何かに熱中できるというのは、とてもありがたいことだ。僕は今、西村賢太に夢中で、そしてそんな自分のことすら愛おしく思える様な恥ずかしい有り様。しかしこのような状態は、人生でそう数多く経験できないとわかっているので、もう骨でもしゃぶるような思いで、彼の本を読み漁っている。そうなると尚更、彼が死んでしまったことが惜しい。もう二度と彼の新作を読むことはできないのだ。
 僕が西村賢太に感謝しているのは、彼こそが僕に、私小説の面白さを教えてくれたからだ。僕が思う私小説の一番魅力は、それが「言葉を選んだ本音」である点だ。もちろん、ただの本音なら今やSNSでいくらでもお目にかかれる。しかしあれは言葉を選んでいないからまずい。言葉を選ばない本音は独り言と同然で、陳腐で、かえって見聞きしないほうが健康にいい。
 しかし私小説で書かれる本音は「言葉を選んだ本音」で、読者を想定し書かれ、きちんとエンタメとして昇華されている。それこそが素晴らしい。それはある種の業の肯定で、失態が小説として昇華されているのを目の当たりにすれば、読者は自分の失態も憂鬱もコンプレックスも、笑い飛ばせてしまいそうな、勇気をもらえる。
 という偏愛ぶりを恥ずかしげもなく披露しておきながら、熱しやすくも冷めやすい僕は、一体五年後十年後に、自分にとって西村賢太がどのような存在になっているのか、まるで見当がつかない。変わらず追いかけている気もするし、すっかり飽きて、むしろ激しく批難している気もする。それはそれで面白いからいい。しかしもしそうなったとしても、二十一歳の今この瞬間、「寝ても賢太、覚めても賢太」という状態で、熱に浮かされたように彼の作品を読んでいるのは事実なわけで、その興奮を、いつか忘れてしまうのだとしたら、それは悲しい。悲しいので、せめてもの記憶のよすがとすべく、この文章を書いている。興奮は生ものだから、腐らぬうちに保存しなくてはならない。


 いよいよ話の帰着点を見失っているので、最後に、僕が一番好きな西村賢太の作品を紹介して、締めくくりたい。
 それは「疒の歌」という長編小説だ。この小説では十代最後の横浜での生活が描かれると同時に、初めて田中英光に触れたときの感動も描かれている。
 以下は主人公北町寛多が初めて『田中英光全集七』を読んで、興奮冷めやらぬシーン。

 この小説に接した余りのうれしさに、もう、どうしようかと思ったのである。
 一気に紅葉坂をくだり、興奮状態のまま桜木町の駅の方角へ突進していた寛多は、ふと気がついてハタと足を止めた。で、廻れ右をすると、元きた道を慌てて引き返してゆく。
 こんなことをしている場合でなく、また室に戻って田中英光の私小説を読む必要性に迫られたのである。
 そしてそれから三時間のうちに、一巻すべてを読み上げて、またもや屋外に飛びだしてきたときの寛多は、すでにその脳内は田中英光のことで一杯の状態だった。
 今先に覚えた作中の一節を脳内に反芻し、口絵の肖像を思い浮かべ、やがて“英光、英光”と呟きながら、何かの精神的な病に侵されたかのような顔付きと足付きとでもって、身の置き所のない異様な心身の昂奮を鎮める為に、界隈をウロウロ歩き廻ったのである。

西村賢太『疒の歌』新潮文庫


 僕はこの本を繰り返し繰り返し読んだ。読む度に新たな発見があり、また新鮮な感動と興奮を味わえる。そしてその興奮は今も鎮めることのできないまま、野畑を燃やしたように、未だに続いている。


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