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他人事?

過去を隠さなくてもいい、
嘘をつかなくてもいいという。
ここに、救いがあるんじゃないでしょうか。
人にばれたら困ることを抱えていると、
逃げ回らないといけない。
しかし、人から何を言われても、
そうなんです、それが私なんです
というふうに包み隠さずにいれるようになる。
それが、どこにでも生きてく道が
開けるということになるのです。
        一楽真

7月29日の「黒い雨訴訟」の広島地裁の判決に対して、国は控訴をした。
実際の控訴人は広島県と広島市だが、それを命じたのは政府だ。

また逃げた。

国はすべての問題から、先ずは逃げることを考える。
真摯に向き合うことは考えない。
司法も検察も警察も、問題があるとまずは逃げる。
日本の在り方だ。

認めたら、責任を問われる。
悪いのは自分だと認めることになる。
だから逃げ回る。

国がそんなんだから
国民性までもが「逃げ」を良しとするようになったのか
国民と呼ばれるひとりひとりがそんなんだから
出来上がった国がそんなんなのか。

おそらくは両方だろう。

国民性と国民が作る国。

基本悪いと思っていない。
悪いと思う勇気ががない。
そんな臆病者が大半を占めるのが日本という国だ。

自分自身も逃げてきたことが多々ある。

バレなきゃ大丈夫だろ。
と、たかをくくって居るながら、
その実はオロオロしながら逃げる。
そして、基本バレる。
バレなければそれがずっと傷として残る。
ろくなことはない。

事実は、真実はたしかに薄情であり
実も蓋もなく、だれかれ構わない無分別で無差別な過酷なものだ。
その事実から逃げることを覚えた人間は
見ないことを覚えた人間は
基本、どこかで逃げたいのだろう。
生まれたら死ぬ。

でもその事実を受け入れたとき
初めて「生」の尊さが分かる。

傷ついている人がいる社会なんだと認める。
傷ついている人が救われるってどういうことなんだろう。
なぜ傷ついているのだろう。
どうしたらその傷を少しでも癒せることができるのだろう。
二度と同じ過ちを起こさないようにするのにはどうしたら良いのだろう。

そうしたことをともに悩んでいくことくらいしかできないが
それができるのも人間だからこそなのではないかな。

まだ人間を諦めたくはない。

いや
諦めがつくほど人間は誰ひとりとして互いにわかり合おうとしていない。

それならば逃げずに向き合うことを心掛けたい。
時に、目をそらしてしまう
時に、思わず後ずさりして場を外してしまう
でも、最終的に苦しくて辛くて悩ましくても
その場に立ちたい(立つではなく、立ちたいでいい)
その気持を持っていたい。

「黒い雨訴訟」の問題も
数多くの戦争責任の問題も
数多くの冤罪事件の問題も
数多くの差別問題も
一切の事件・事故・災害も
誰かの責任で終えてしまったら
他人事になる。

「じゃあ、オマエはどうなんだ?」

この言葉をなにかを感じたときは
自分に言い聞かせていく。
それくらいしかできない。

「今日の言葉」の言いたかったことと相当ずれている。

なので、ほんの少し、『今日の言葉」が言いたかった「逃げる」について。

今の社会は逃げざるを得ないような社会だ。
許してくれない。
弱みを見つけたら、自らが上に立つため、自らの保身のため、弱みを見せたやつを徹底的に叩く。
だから弱みは見せられない。
弱みを隠し、弱虫である事実を隠蔽し、イケダカに振る舞い、徒党を組み、排斥し、なんとしても事実から目を背け逃げ回らないとならない。
そんな社会がいいわけがない。
誰でもが、弱さを、してしまったことを、寂しさを、孤独さを、素直に吐露でき、安心できる、生きていけると思える、生きていてもいいんだとホッとできる、そんな社会であってほしい。
そんな社会を目指すべきなのだろうな本来。
7月1日に載せた「今日の言葉」にあった、

誰かが
「死にたい」と思う社会は、
誰もが生きづらい社会である
        渋井哲也

誰もが、生きやすいとまでは言わない
生きていける、ここでなら、
そんなふうに思える社会を造るのが急務だ。




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