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どちらでもいい、決めるのは自分だ。

人生には、二つの道しかない。
一つは、
奇跡などまったく存在しないかのように生きること。
もう一つは、
すべてが奇跡であるかのように生きることだ。
   アルベルト・アインシュタイン

「いま ここにボクがいる
 どうだい すごいだろ?」

22歳の時にやった舞台で
初めて台詞を書いた。
その時の一部。

その時は
べつだんなんの思想もクソもなく
人(友人)が書いた台本の出だしがなんか物足りなくて
勝手にワンシーン付け足して
オープニングにしてしまった。

そんなことでも面白いことに芝居の意味合いが変わってしまう。
この時は、主役が変わってしまった。
そのオープニングを飾った役が主役になり
本来主役のハズに役は脇を固める主役が主役たるゆえんを語る重要な役に変わってしまった。
面白いものだ。

なんでもそうなのだろうが
その時は、うまくことが進めば進むほど
自分が目指している方向に事が進んでいると思いこんでいる。
でも
ほとんど
いや、全部が全部
後付だが、偶然の積み重ねだ。
うまくいこうがいくまいが。
成功しようが失敗しようが。

そう思うといっそう面白い。

自分の思いどおりなんてたかが知れている。
自分の殻をぶち壊してくれるような出遇いがいっぱいある。

前にも少し書いたが
演出していると
役者がとんでもないことをしでかすことがある。
ありえない動き。ありえない表情。
きほん使えないが、それを生かしきれた時、めちゃくちゃいいシーンができることもある、ごくたまに。
自分の発想なんて貧困なもんだ。
自分の知ている世界の中でしかないのだし。

以前、カメラの使い方や写真の撮り方が知りたくて写真教室に通っていた。
同じ場所を一緒の時に撮ったのに、まったく違う写真をみんな発表してくる。

「え?これどこ?いつ撮った?」

自分の写真と同じ場所。同じ時間帯。
ただ、見ているところが違う。
見え方が違う。
狙った対象が違う。
そんなこと。
わたしからすると不思議な写真、羨ましいようないい写真を撮る人ばっか。
上手いとか下手とかではない。
よくぞそこに眼がいった!と感心する。

みんなその時その時まったく違う出遇いをしている。

日常、いちいち全てを気にかけていたらどうにかなってしまう。
でも、本来は全てが奇跡の連続だ。

何よりも自分自身が奇跡だ。

ビッグバンは奇跡だ。
宇宙がなけりゃ地球もない。
奇跡の上の奇跡だ、地球は。
その地球に生物が誕生して
それがなんだかんだで人となって
わたしがいる。
奇跡以外の何物でもない。

「わたし」はこの瞬間
史上最高の奇跡だ。
宇宙の誕生よりも地球の誕生よりも。

ここにあなたがいるのも。
ここに石があるのも。
ここに蟻がいるのも。
ここに空気があるのも。
わたしと同じく奇跡。

すごいね。

だから、たまにしかない感動という出遇いくらいは大事にせにゃなぁ。

けっきょくさぁ
今朝も写真を撮り歩いていて
「夏場は、暑くて、緑なだけで、そのくせ草も木も人も鳥もウダ〜って疲れてるし朝っぱらから、まったく被写体ねぇじゃん!」
とかしか思えない。

「うわぁ〜〜〜、この葉っぱに出遇えた奇跡に感謝〜〜〜」とか思えれば楽しんだろうな、もっと。

「くそ!なんも撮れなかった〜〜(T_T)」くらい悔しがれればいいのだろうな。

でもそうもいかない。

つまらん方に舵をとってしまいがちなのは自分自身だな。

暑いし、新型コロナはあるし、不景気だし、あれやこれや不満だらけだからこそ、面白く生きてやりたい、意地でも。

と、意地でも言い続けにゃ、すぐにほら、

またつまらん方に舵を切る。


*追記
 タイトルに対してあまりにも言葉足らずな気がしたもので、足します。

「今日の言葉」のように二者択一的な言葉を聞くと、
どちらかが正解で、どちらかが間違い。
そんな風に受け取りがちだ。
でも、間違いも正解もない。
今日の言葉で言えば、どちらかというと、
「すべてが奇跡だと思って生きる」そんな生き方が大事であって、
そうでない方は、なんでもあたり前だとして生きるのは「つまらない、間違った生き方だ」、そんな風に受け取る人が多いのかな、とおもう。
でも、「奇跡などまったく存在しない」という受け止めは、凄いことだと思う。
全てを認める、受け入れるという姿勢とも受け取れる。
在るものを在るが儘に受け入れる。
できっこない。
もしどちらかを選べと言われたら、
「奇跡と受け入れるほうが楽しそう。だからそっち方向になるべく舵を取りたいなぁ〜」ってのがわたしだ。
それだけのことだ。

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