躁鬱とブッダ
自分の生き方と波について考えた時、
ふと、ブッダの○○だなと
思うことがありました。
私は仏教に関して素人だし、
躁鬱の中でも様々かと思いますが
書き留めておこうと思います。
○波によって、
自分の人生をコントロールする事ができない。
波に一体化して衝動に浸かって生きると、
社会との軋轢を生み、人間関係も破滅しそう。
身体が動かない事は悲しい。
…この特性と上手くやっていくには、
投薬もだけど、
自分の中の波(衝動)を観測して、
出来て調整をする。
(コントロールする事はできない。
観察・調整に留まる。)
▶︎瞑想、気づき に通じる
○一貫性のある自分が無い。
衝動に動かされたり、
反対に全てに興味を無くしてしまう。
1年の中でも人が変わってしまう。
記憶と、少しの自分の特性だけが引き継がれている。
…自分を構成する数え切れない命、
世界、全ての波の影響を受けやすい。
自分だけ の考えというものはない。
よって個としての自分は無い。
▶︎無我(無私?)に通じる
仏陀は躁鬱だったのでは…と思ってしまう位
自分の考えと通じていました。
周りの躁鬱の人が何人か仏教を勉強しているのを見ても、やはり親和性があるのではと思います。
またブッダと離れますが
自分は「調整者」だと思うことがあります。
得体の知れない「波」 と
社会 との調整
それはそのまま
人智を超えた世界と人間的な営みを繋げる
作品作りにも繋がります。
(自分はアーティストなので)
波と社会
2つの間に入る事によって
片方を片方に受け流したり、
波に一時的に没頭することによって
人々にその形を示し、
感動させる事もできます。
(自然や衝動を写し取り表現する)
私がシャーマンに憧れていた時期があったのも
これで説明がつきます。笑
得体の知れない波に焦がれつつ、
それに振り回される人生。
波と社会との間としての存在。
間に入る者 は辞めたくても辞められないかもしれないですが
だからこそ、活かして生きていければと思います。
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