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悩むのは、狭い範囲にこだわっているから? #025「『寛容さ』について仏教から得られるヒント」 〜タイニーのご自愛タイムズ〜

タイニーのご自愛タイムズはご自愛について語り合う場です。ともこ&あこや、様々なゲストと共にそれぞれの日常を紐解き、「ご自愛」について探求していきます。

今回のテーマは、「『寛容さ』について仏教から得られるヒント」

ゲストは、秋田県秋田市の法華寺で副住職を務める齋藤宣裕(さいとう せんゆう)さん。2回目の登場です。

前編は「寛容さ」についてお話をお聞きします。仏教の教えからヒントをいただき、日々の生活に活かしていただけるとうれしいです!

▼前回のnoteはこちら
ご自愛タイムズ #006 「お坊さんとのご自愛談義」

「救い」は自分たちで学び、手にすること。そのために必要な「智慧」とは?

ともこ:前回ご自愛ラジオに出ていただいたときに、「ご自愛」や「やさしさ」というキーワードから、「多様性に対して寛容であること」というお話が出てきましたよね。

今、世の中では想定もしなかったようなことがいろいろと起きていますよね。余裕がなくなってくると、自分自身に対しても他者に対しても、寛容であることが難しい…と感じることが多いんです。仏教の教えから、寛容であるためのヒントをいただけませんか?

せんゆう:私が以前聞いた例え話なのですが、ある先生が「仏教は心の病院だよ」とおっしゃっていました。自分が困難に当たった時に、仏教が心の病院として役割を果たすということなのだそうです。

仏教では、教えを広めたからといって、自分にメリットはないんです。
「そもそもこの世は悩みや苦しみがあふれていて、それをなんとかしたい」。そう思って始まったのが仏教なんです。「駆け込み寺」という言葉があるように、仏教は心の病院みたいな役割で、「この世に生きているのがつらい」「寛容でいられない」などの事情があるときに響いてくるものなんです。

ともこ:「駆け込み寺」という言葉はまさに、ですよね。仏教は、苦しみから解放されるために始まったものなんですね。

せんゆう:今回お話ししているのは「釈迦の仏教」といわれる原始仏教であったり、最初期の仏教のことになりますが、。そういう時代においては、普段私が行っている仏教とは少し違っていて、「自分たちが救われるためには、誰かに頼るんじゃなくて自分たちでなんとかしなきゃいけない」という、ちょっと厳しく聞こえるような教えだったんです。
お釈迦さまが救うのではなくて、お釈迦さまが決めたルールに従ってストイックな修行生活をすることで、悩みや苦しみから離れて幸せに生きることができる。そういうところが仏教のスタートだったんです。

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ともこ:なるほど。お釈迦様が救ってくれるわけではなくて、自分で学んで手にしていくことが特徴としてあるんですね。

せんゆう:そうなんです。では、寛容が難しい局面でどうするのか?
仏教の世界では、悩みや苦しみの原因は煩悩なんです。そして、煩悩の代表的なものを無明と言います。明るいという字が仏様の智慧(ちえ)のこと。智慧は勉強ができるという意味の知恵ではなくて、生きていくために必要な、根本的に必要な智慧。それがないので私たちは苦しんでいると。
智慧がない状態だと、ご自愛が難しい状態になってしまうと思うんです。
他人のことを羨ましく思ったり、自分が苦しんでいるのを誰かのせいにしたり、ちょっとしたことにイライラしたり、相手に過度な期待をしてしまったり、不安な気持ちが湧いてきたり…

ともこ:煩悩を手放して生きていくのが、智慧を持っている状態ということなんでしょうか?

せんゆう:煩悩から離れるために必要な、「こういうことをすれば苦しまないで生きていけますよ」というお釈迦さまが示したルールがあるんです。
それは「他人を変えるのは難しいので、自分を変えましょう」ということなんです。
人間関係においても、相手を説得して自分の思うように変えるのはすごく難しいと思います。考え方やアプローチなど、自分を変えることで状況を変える方が簡単であると。

ともこ:特に日本人の気質として、調和を重んじるところがあると思うんです。
「どうしたいか」という自分の欲求よりも先に「相手がどうしてほしそうか?」「この集団では何をするのが良しとされそうか?」と他のことを優先してしまう。すると、自分がどうしたいかがわからなくなってしまうのかなって思います。

「諸行無常」。悩んだときは、より広い視点で自分を見つめてみる

ともこ:個人的にも「他人ではなく自分を変える」という言葉に子どもの頃から触れる機会がありました。ただ、他人ではなく自分を変える「べき」という意識が強くなって、自責しすぎたり、疲れてしまうことがあるなと感じていました。
そういった場合は、自分の心をどう整えたらいいのでしょう?

せんゆう:一時期「忖度する」という言葉が流行りましたが、他人の様子を先読みして自分を合わせにいくというのは、本当に日本人らしいというか…
そうした結果に自分がすり減っていくというのは、多くの人が悩んでいることかもしれませんね。

例えば、先日お寺にいらっしゃった方が、時間のお話をされたんです。
私たちの人生って100年くらいですよね。うちのお寺は今520年くらいになるんです。
「そんなに長いんですね」と言われるのですが、500年という単位も、仏教の経典の中では一瞬なんです。
お経の中に「一劫(いっこう)」という単位が出てきます。百年に一度、天女が空から地上に降りてきて、数千km四方というとんでもない大きさの岩を衣でひと撫でしていく。そして、その岩がなくなってしまってもまだ満たないくらいの途方もない時間のことを「劫(こう)」と言うんです。いわゆる「永遠」を別の表し方をした単語がたくさん出てくるんですよ。

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ともこ:日常で自分自身が固執してしまっている視野や時間軸から離れることで、自分の悩みがちっぽけに思えて、救いになるのかもしれませんね。

せんゆう:そうですね。また、仏教には「諸行無常」という言葉もありますが、意味はわかっても実感することはあまりないと思うんです。
でも、この一瞬一瞬は今しか来ない。もう二度とやって来ない瞬間の積み重ねが未来になっていくんです。私たちのこの体だって、正直に言えば、みんな死に向かって歩いているわけですよね。この流れは誰にも止められないんです。
そういう時間軸で考えると、自分がどういうことを考えて、どういうことをするのがベストなのかが見えてくるかもしれません。時間の単位を変えて自分を俯瞰して見てみるというのは、自分を縛っているものや悩みから少し軽くなれる方法かもしれないです。

ともこ:今お聞きしていて、悩む時ってちょっと傲慢さがあるのかな…と思いました。「自分でできる、解決できるはず」のような。諸行無常の話を聞いていて、もっと大きな流れや時間軸を感じてみると、捉え方が変わるのかも、と思いました。

せんゆう:自分から離れて見つめてみることが大事だと思っています。どうしても日々の生活に追われていると、いつの間にか自分で自分を縛っていることがすごく多いと思うんです。そういう時には「現実の時間」から離れて自分を眺めてみたり、どんなことを思っているのかを考える時間がないのではないかな、と。自分と向き合って考えてみたり、立ち止まってみるのが今すごく大切な気がしています。

ともこ:感じ方のスイッチを変えるきっかけを求めている人は多いのかもしれませんね。
日常の中では味あわない感覚や、持たない目線を取り入れることによって、目まぐるしい日常の捉え方が変わることになるんでしょうね。
「この悩みを解決しなきゃ」となっている時よりも、日常を離れて普段と違う感覚の中に身を置くことで、意外とするすると紐解けたりするのかも。

せんゆう:小学生や中学生の時って、学校が全てでしたよね。そこでちょっとうまくいかなかったりすると、まるで自分の全てがダメになったように感じて、追い詰められてしまう人もいる。でも大人になってから振り返ってみると、学校は選択肢の一つで、もっと他に世界が広がっているとわかりますよね。
もしかしたら、学校を卒業して広い世界に出たつもりの私たちも、まだまだ狭い世界に囚われているのかもしれないですね。

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ともこ:自分の目の前に見えている景色に囚われて、こだわって、その中しか見れなくなると、ガチガチになって寛容さを持てなくなるのだなと思いました。だから、あえて日常から離れた体験や考えに触れることで、寛容さを取り戻せるようになるのかもしれないですね。

悩んだり焦ったりすると視野が狭くなって、目の前のことにとらわれてしまう。目の前のことにとらわれると、さらに焦ってしまったり…ぐるぐるから抜け出せない状態ですね。
「諸行無常!」と紙に書いて、見えるところに貼ってみようかな?

▼こちらの内容は、タイニーのご自愛ラジオに収録されています。
通勤時間や、料理をしながらなど、スキマ時間にぜひ聴いてみてくださいね。



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