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あなたは太陽で、月で。

 ひとりで過ごすこの1Kの部屋は、もう慣れてきた。窓から差し込む太陽の光が差し込む間は、ゆっくりと眠り。陽が沈むと、ようやくわたしは目を覚ます。ときどきその循環通りではないこともあるけれど、基本的にわたしの暮らしは変わらない。

 この部屋ではいつもひとり。あたたかいラグもないし、お洒落な家具もない。そして共に過ごす人間もいない。それはそれで気楽で、でもちょっと寂しかったりする。だって、生まれたときは数多くの仲間に囲まれていたんだから。

 見上げると、向こう側では穏やかに微笑む妙齢の女性がひとり、カップを持って歩いている。ああ、あのカップはこの前の休日に雑貨屋さんで一目ぼれした子だったかな。彼女は最近、なまけものという生き物がすきらしい。少しずつ、少しずつ。その生き物を形どった子達がちらちらと覗えるようになった。

 本棚には、数多くのエッセイやヒューマンドラマ、ほんの少しの現代ファンタジー小説がお行儀よく並んでいる。マンガもある。少女マンガが4割で、少年マンガが6割。以前までの彼女は少女漫画一択だったけど、ここ最近アニメ化した影響か、原作の少年マンガが本棚に並ぶようになった。彼女がその本やマンガを読んでいる間、わたしはそっと見守る。読むことに夢中になり過ぎて、この前はカップの取っ手をかすってしまい中身をこぼしていた。また同じことをしないか、わたしはヒヤヒヤしながら見守るようになった。

 昨日は2時間以上もずっと読み耽っていた。真新しい本。ちょっと分厚い単行本だった。きっとずっと待ち望んでいたすきな作家さんの新作だろう。彼女はその作家さんの作品をいつも発売当日に買ってきて一晩かけてでも一気読みするくせがある。

 真っ白なシーツで包まれたベッドは、柔らかそう。彼女はよくそのベッドに身を委ねて本を読む。そこが定位置なのだろう。仕事で疲れている日や残業した日なんかは、もうそこに飛び込むなり微睡みの底へと落ちている。昨日はその脅威を避けるためなのか、ベッドの横にあるオークウッドに縁どられたガラス板のはめ込まれた小さなテーブルの上に本を置いて読んでいた。

 彼女は手にしていたカップをそこに置いた。カン、と気持ちのいい澄んだ音が響く。そして彼女はそのテーブルに頭をもたげるもの――わたしと同じ性質の――あの子を、起こした。パッと光を放つそれは、わたしとは違う表情で穏やかに彼女に笑いかける。彼女が書き物をしたり読書をしたりする際大いに活躍するあの子。あの子もわたしと同じように、彼女のことが大好きなのだ。話をしたことはないけど、わかる。同じだから。

 わたしと同じなのに、あの子はこちら側にいない。この空間に住まうようになったときから、あの子は彼女と、本と、ベッドと――様々な家具たちに囲まれていた。

 当時のことを思いだす。あの子があちら側に現れたとき、わたしは嫉妬した。いいなって。いつも彼女に気にかけて貰えて、笑いかけてもらえて。

 そう、わたしは彼女に毎日触れて欲しかったし、彼女のその手のぬくもりが、恋しかった。

 あの子になりたい――。

 何度そう思っただろう。この世に生まれて、彼女のいるこの空間に住まうようになって。わたしは彼女を照らしつづけた。彼女が友人を連れ、あたたかな食事を囲み賑わうときも、彼女が恋人と気持ちがすれ違いひどい言い合いをしたあの日、怒りと悲しみとが混じり合う感情のままに涙したあのときも。缶ビールを片手にお笑い番組を見て笑い転げては、仕事先の上司に結婚を急かされたことを思い出して「あれはセクハラだ!」と自分に言い聞かせ、ビールを煽り飲みまた番組を見て笑うとき。ホラー映画を見て、夜中にトイレに起きることができなくて気を紛らわせるためかわたしを起こして、スマートフォンから大音量の音楽を流してた。陽気な童謡だったな。

 かっこいい彼女も、だらしない彼女も。大人になれない子どもみたいな彼女も。わたしはとてもすき。だって、人間はそうしたいびつさがあるからこそ、それぞれに光るものを持ってるんだから。

 きっと、わたしには生み出せない光で誰かを照らすのだと思う。彼女だって、ここにいない間過ごす時間、場所の先々でたくさんの人間を照らしてる。そうして誰かのために頑張ってる彼女を、彼女だけを、わたしは照らしていてあげたい。せめて、彼女だけのこの世界だけでも。

 こちら側から、わたしはずっと彼女を見守り続けてきた。見上げてくれることはあっても、隣に並び合うことはできない。あの子はいつも彼女のその隣に落ち着いて、その視線を受け取って、彼女に触れられているのに。

 ずるい、と思ってた。けど、今ではもうそんなことは思わなくなった。あちら側と、こちら側。小さな隔たりはあるけれど、それでもわたしは彼女の世界をまばゆく照らし、想うことができる。彼女を永き時間をかけて見守ることはできるのだ。そのことに気がついたら、向こう側にいるあの子に嫉妬なんてすることはなくなった。むしろ、恵まれているとさえ思えるようになった。だって、あの子よりもずっと、わたしは彼女がこの空間にいる間、誰よりも何よりも明るい光で照らしてあげられる。この世界でだけは、彼女だけの太陽であり、月のようにいられるのだから。わたしは今、そのことがとても誇らしい。

 でもやっぱり、わたしは所詮「物」だから。持ち主の彼女には一番に愛されていたいと、そう願ってしまう。

 ……でも彼女にはその気持ちが伝わることはなくていい。わたしの幸せは、彼女を照らし続けること。彼女のささやかな暮らしを照らすこと。この世界では、彼女が闇に飲まれないようにするために、柔らかく優しい光で包んであげることだから――。



 「ただいまー」

 家に帰って来て、私はまず明かりをつける。私は暗い場所が苦手だった。小さい頃、両親は共働きで家を留守にすることがほとんどで、私が学校から帰える頃には、家の明かりがついていることなんてまずなかった。

 今思えば、両親共々仕事が生きがいみたいなひとなので別にどうも思わない。社会人になった私だって、今は仕事が充実しているし楽しい。予定はないけど、結婚しても仕事を辞めるという選択はたぶんとらないだろう。でも、子どもながらに感じたことは覆せない。

 ――小さいうちは、お母さんでもお父さんでも家にいてくれて。おかえり!って、言って欲しかったなあ。

 そういう気持ちはずっとある。むしろ消えるどころか年々強くなっていく一方だ。だからきっと、結婚する選択をしたら、私は子どもを為さないと思う。自分の気持ちを蔑ろにするのはもちろんしたくない。なんていったって、私の人生は私が主役なのだから。……でもかといって未来の自分の子に同じような気持ちを思わせるのはもっと嫌だ。

 子どもが欲しくないのかといえば、実はちょっと欲しい。もう私もいい年だし、このあたりが家族を、子を持つ未来を選べる最後の分岐点には来ていると思う。今付き合っている彼とだって、そういう関係に進むことに抵抗はない。むしろ望んでいないかといえば、それは噓になる。

 私は家に帰って来て、明かりをつけるという行為の間に、このことをほぼ毎回考える。そしてその出ない答えに、決められない、見えない未来に虚脱感すら覚えるのだった。明かりがついた途端、それはすべて物陰に引っ込んでいく。まるで人間から身を隠して生活する害虫みたいに。

 けれど、この日はスイッチを押しても一向に明かりがつかなかった。不思議に思って、天井にうすら浮き上がるシーリングライトを見つめる。デザインが気に入って購入した、ヴィンテージデザインのそれ。この部屋に越してきたとき、たまたま覗いたショップで、一点ものだったものだ。

パチパチ、繰り返し同じようにやってみたがまったく明かりがつかない。

 「ありゃ、切れちゃったか」

 このシーリングライトを購入した当時、まだ収入が安定していなかったため、お値段のお手ごろな蛍光灯を入れていた。それを思えばよくここまで持ってくれた、と思った。

 肩にかけていたバッグを壁に立てかけるように置き、ベッドサイドの間接照明を点け、真っ直ぐにデスクに向かう。そこから椅子を持ち出し、その上に上って、私は手際よくライトカバーを外した。

 「確か、買っておいたはず」

 暗闇の中を、からだに沁み込んだ感覚を頼りにキッチン横の収納庫に向かう。そこから、替えにと買っておいたLEDライトを取り出した。ぼんやりとした視界で、目的のものであると確認すると、再びリビングへと戻った。途中自分で置いたバッグが倒れていたせいで足を取られたけれど、転ばなかったのでまあよしとする。

 椅子に上り、視界の悪さからふらつきながらも真っ直ぐ立つ。手間取りながらもその付け替えを行い、再びあるべき場所にライトカバー取り付けた。スイッチの場所まで向かい、それを押す。すると、穏やかな明かりが室内を照らした。今までのものとは違う、柔らかい光だった。

 「……ふふ、やっぱりあなたがいてくれてこその私の部屋だわ」

 手についたほこりが気になり、思い立ったように掃除用シートを手にし、シーリングライトのカバーを磨いた。まんまるで、まるで私の部屋だけの太陽みたいで、月のようだった。エアコンもヒーターもつけていないのに、どこか温かい。そう私は思いながら、つぶやいた。

 「ただいま」

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